東京やなぎ句会編『友あり 駄句あり 三十年』(日経新聞社)を読了。
1969年に始まったこの句会が30周年を迎えた1999年に出版した本。
句会のメンバーは、入船亭扇橋を宗匠に、永六輔、大西信行、小沢昭一、桂米朝、加藤武、長井啓夫、柳家小三治、矢野誠一、江國滋、神吉拓郎、三田純一市がメンバーだった。毎回の記録を完全に管理していたのは江國滋であり、そのおかげで本になった。
会則がある。会費は2500円。30分を越える遅刻者は罰金1000円。欠席者は代理人(女性)を立てるがその甲斐性なきものは罰金5000円、、、)
JAL時代に縁のあった3人の故人、永六輔・江國滋・神吉拓郎を追うことにしたい。3人とも東京生まれのシティ・ボーイで、生年は神吉は1928年、永六輔は1933年、江國は1934年である。1984年の句会中には、神吉に第90回の直木賞受賞の通知がもたらされる。
第332回(1997年2月17日)では、江國は癌を告知されたことを報告している。「石田波郷を凌駕する癌俳句の金字塔に挑戦する」「やなぎ会の全員に自分の口から報告できてこころの底からほっとした」「長い一日だったが、快い一日でもあった」。「おい癌め酌み交はそうぜ秋の酒」は絶唱だ。
江國滋(江さんは台湾から来た。日本語はペラペラだし、冗談もいう。文章などは日本人ハダシである。句を考えている顔なんか、実にいいのだ。、、、というと、みんな本気にするのだ(神吉拓郎))。
・大いなる繁栄ここに日本忌
・セル着れば死んだおやじょの匂ひかな
・いじらしき牛乳瓶の上の雪
・勲章はペンだこ一個文化の日
・東京の夜の旧家の走馬灯(神吉拓郎追悼句会)
「このやなぎ句会こそ、何をかくそう、わたしの学校であったなあ、、、月に一度、欠かさず顔を合わせるあの連中たちに、俳句よりももっと大きなものを教わり続けて今に至っている」
・亡き人のうわさ楽屋の火鉢かな
・牡丹咲けわがよき人の笑むごとく
・屈託や目刺のわたのほろ苦く
・ふりむける鹿の目淡き色をして
永六輔(ご存じアサダアメの手先。種田山頭火に傾倒して、自由律の句一本槍、その出来映えには、師の山頭火も、あの世で頭をかかえているだろう(神吉拓郎)
・寝返りをうてば土筆は目の高さ
・哄笑も微笑もあって友偲ぶ(神吉拓郎追悼句会)
この句会は、吟行が多い。名前を聞いただけで旅情を誘う。こういう旅は旅名人の永六輔さんの推薦だった。
高尾、信州、安土、城ヶ島、秩父、日立、博多・柳川、富山、信濃追分、上州安中、摂津池田、諏訪、名古屋、青梅、箱根、浅間温泉、伊豆下田、山梨橋倉温泉、盛岡、松山、佐倉・成田、横浜、近江長浜、伊勢桑名、香港・ジャカルタ、台湾高雄・台北、小倉、伊豆大沢温泉、熊本山鹿温泉、佐渡、ハワイ、大分臼杵、ベトナム・ホーチミン、大分竹田、内房富浦、松阪、気仙沼、、、。
この本の副題は「恥多き 男づきあい 春重ね」だ。うらやましい。
2009年の40周年には『五・七・五―句宴四十年』を刊行、そして2013年には『友ありてこそ、五・七・五 』を刊行しているから、。まだ続いているようだ。2019年には50周年を迎える。大したものだ。
「副学長日誌・志塾の風」170927
・10時から学部運営委員会:教授会前の執行部打ち合わせ。
・教授会の前に、秋学期からの交換留学生18名の紹介。
・教授会10時40分ー12時15分:400枚以上の教授会資料はすべてパソコンで参照する態勢がよくわかるいい写真が撮れた!
教員ラウンジ
・樋口先生:モンゴル
・飯田先生:「学部長日誌」をどう活用するか。
・杉田学部長:近況交換
・杉本係長:戦略会議資料の点検
・13時半:関西から立岡さん来訪
大学院同窓会の会長に就任した坂西会長来訪。
・大学の現況を説明
・学部同窓会の黒瀬会長・学長室高野課長も加わり議論。学部(経営情報学部・グローバルスタディズ学部)と大学院(700名)の合同企画として「知の再武装」シリーズを開始する方向でまとまった。
「名言との対話」9月27日。武市瑞山「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
武市 瑞山(たけち ずいざん。文政12年9月27日(1829年10月24日--慶応元年5月11日(1865年7月3日)は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。
幕末に土佐勤王党を結成し、参政・吉田東洋を暗殺し藩論を尊皇攘夷に転換。京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を果たすが、8月18日の政変で政局が一変すると投獄される。1年8ヶ月後に切腹。
内田樹は、桂小五郎、武市半平太、坂本龍馬がそれぞれ幕末の三大剣道場の塾頭をそろってやっていたのは司馬のいうような偶然ではなく、剣技の高さと志士としての器量のあいだに相関があったと著者は見ている。彼らは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばいいかがわかる」能力を修業によって身につけていた」という。
武市瑞山に対する同時代の人々の評価をあげてみる。
久坂玄瑞「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」
高杉晋作「あれ(半平太)は正論家である。正々堂々として乗り出すことには賛成するが、権道によって事を成すということは何時も嫌っている」
田中光顕「瑞山先生は桁違いの大人物であった」
切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37。藩主山内容堂は武市へ切腹を命じたことを悔いていた。冒頭に掲げた歌は、武市瑞山の辞世の歌である。