NPO法人知的生産の技術研究会の総会を開催。「筒井康隆」「江國滋」。

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NPO法人知的生産の技術研究会の総会を開催しました。

議題:2021年度活動報告。2021年度決算報告。理事長選任。2022年度事業計画。

議題は承認され、私は理事長に改めて選任された。以下、理事長方針「コロナ禍とZOOM時代で環境が一変。幹部会(理事・幹事)で推進。FB[知的生産の広場」が主戦場。役割分担の骨格は変えない。新理事2人。新幹事1人。監査役も新人。具体的な担当も決定。イベント・クラファンなど新しい資金調達方法を研究。創業者・八木哲郎さんの追悼会も予定。

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朝:立川で体を整える。

Audible2つの講演を楽しむ。

新潮社創業120年記念トーク筒井康隆ワールドの過去・現在・未来」 。

1960年代にSF作家としてデビューして以来、ドタバタ爆笑小説、実験小説、そして純文学と、ジャンルの壁を軽やかに乗り越え、旺盛な創作活動を続けてこられた作家。

本日の新聞で学士院賞を受賞したことを知った。「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」という『モナドの領域』に興味を持った。

筒井康隆:著書は300冊を軽く超えている。中年の危機は、関西テレビの人気番組「ビーパップ・ハイスクール」へのレギュラー出演で乗り切っている。この番組には私も数年前に人物記念館をテーマに二度呼ばれて、筒井康隆から「面白かったですよ」と声をかけられたことがある。

江國滋「プロフェッショナルに学ぶ」。落語エッセイや「やなぎ句会」で知られる、俳人江国滋の講演。多くの名人に接して来た経験から引き出した、プロフェッショナリズムの真髄。聴いたのは2度目。プロとアマの差ー菊池寛長嶋茂雄 。トンナンの風ー山川静夫。執筆中の顔ー瀬戸内晴美長谷川如是閑。勉強しなおしてまいりますー桂文楽。 最後は句会「東京やなぎ会」の小沢昭一加藤武の会話。昭和天皇の手の振り方というエピソードのうまいオチだった。

江國滋:何度かお会いしたことがある。赤坂の料理屋で亡きジャック・スタムを思いだしながら泣かれたこと、お得意のカードマジックを披露いただいたことをおもいだした。懐かしい江國先生の声を久しぶりに聴いた。

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「名言との対話」3月25日。島崎藤村「大きな言葉と小さな言葉」

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本における詩人又は小説家である。

岐阜県中津川市馬籠生まれ。1891年明治学院卒業(第一期生)。20歳、明治女学校英語教師。恋愛事件で辞職。1893年北村透谷らと『文学界』を創刊し、浪漫主義文学運動を推進した。1896年、東福学院の教師として仙台に赴任。処女歌集『若菜集』を出版し、近代詩の黎明を告げた。土井晩翠と並び称され、晩藤時代を迎える。「名も知らぬ遠き島より」で始まる「椰子の実」は藤村の詩である。 詩集の合本『藤村詩集』を刊行。その後詩作を絶っている。

1899年から信州小諸で6年間、教師をつとめる。この頃に、詩から小説に転向し、苦心の末、1906年小説『破戒』を自費出版で発表し話題になる。その後も『春』 、『家』、『桜の実の熟する時』 、『新生』を刊行し、自然主義作家となった。1913年から1916年の間、フランスで過ごす

そして、父をモデルとした大作『夜明け前』を1927年に完成する。最後の大作『東方の門』 執筆中に急逝した。日本ペンクラブ初代会長。

                                         

 

島崎藤村全集』から、藤村の考え方、日常などを拾って記してみたい。

・年若い時分には、私は何事につけても深く/\と入つて行くことを心掛け、また、それを歡びとした。だん/\この世の旅をして、いろ/\な人にも交つて見るうちに、淺く/\と出て行くことの歡びを知つて來た。

・今のわたしに夏が好いといふことの一つは、日の長いといふことでもある。なるべくわたしは午前中に自分の仕事を濟ますやうにしてゐる。

・現代の人の口に上る合言葉、新聞雜誌の中に見つける新語、書物の中に出て來る學問上の術語、それらの多くは大きな言葉でである。わたしたちが現に口にしてゐながら、それに氣がつかずにゐるやうな、それらの親しみもあれば、陰影もある日常の使用語の多くは小さな言葉である。筆執り物書くほどのものは、いづれもこの小さな言葉をおろそかにしない。

・「幸福」にはそこの家の人の心がよく分りました。おむすび一つ、沢庵 一切 にも、人の心の奥は知れるものです。それをうれしく思いまして、その兎の飼ってある家へ幸福を分けて置いて来ました。

・私が柄にもない自費出版なぞを思ひ立つたのは、實に當時の著作者と出版業者との關係に安んじられないものがあつたからだ。何とかして著作者の位置も高めたい、その私の要求はかなり強いものであった。

                           

2007年に妻と二人で信州を旅したとき、「はるかなる古城のほとり雲白く、、」で始まる島崎藤村藤村記念館を訪問した。記念館は小諸城址懐古園にある。藤村は小諸の小諸義塾での教師生活で7年間住んで代表作「破戒」を書き始めた。藤村先生は生徒の作文帳の添削欄に「文章は親の肩をもむがごとくに作るべし。大切に用意するを第一とす」などを朱書きしており、興味深い。

 

2017年に神奈川県大磯の晩年の約2年を過ごした旧宅を訪問した。最後の大作「東方の門」執筆中に亡くなった家である。小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「靜の草屋」と呼んで、「余にふさわしき閑居な」と記している。

今回、島崎藤村を調べて思ったのは、一つは「ロマン派」で名詩を立て続けに発表して、第一人者となった。しかしそれに安住せずに、自然主義作家とて時代や歴史をテーマに大作を世に問い続けたことである。社会を描くには詩は容量が少なかったのだろう。

そしてもう一つは「大きな言葉と小さな言葉」である。大きな言葉を無造作につかわないえで、小さな言葉、つまり誰にでのわかる平易な言葉で主張しようというメッセージだ。藤村も福沢諭吉を例に出しているが、私たちも、漢字熟語、カタカナ、概念など大きな言葉ではなく、小さな身近な言葉で社会を語りたいものである。