笛吹市の「青楓美術館」を訪問ーー漱石が愛した画家・装幀家の津田青楓

笛吹市の「青楓美術館」は、画家、図案家の津田青楓を顕彰した美術館。

この美術館には、青楓の絵だけでなく、文章なども展示されている。

7歳頃から使った「青楓」という雅号は、楓(カエデ)が紅葉して落ちるようなことなく、人生をいつまでも青き楓のようにすがすがしくありたいということから命名している。生涯青春の宣言であった。

10代の頃から文芸誌「ホトトギス」を読んでいたが、フランス留学から帰って、漱石と親しくなる。漱石に絵を教えている。木曜会に出入りするようになった。その木曜会の様子を描いた有名な「漱石と十弟子」は青楓の作品であることを知った。そうだったのか!

『道草』『彼岸過迄』『行人』『明暗』などは、青楓の装幀である。

98歳のときのエッセイでは、朝目をさますと「今日の仕事は何にしようか」と考え、決まると元気よく、楽しく起きられると述べている。絵、書、歌な彼のいう仕事である。仏教を心の糧にしており、「心こそ心まどわす心なり心の駒に手綱ゆるむな」という歌を信条として清らかに暮らしている。

小池唯則。1903年山梨県笛吹市生まれ。教職を経て練馬区に幼稚園を設立。54歳から都立工芸学校でデッサンや油彩画を学ぶ。68歳ごろに青楓と知り合いその人格に魅せられ、作品の収集を始める。1974年、71歳で故郷に青楓の美術館を完成させる。「ぶどう畑のなかの小さな美術館」との愛称で親しまれている。1982年に79歳で没した。この人がいなければ津田青楓の美術館はなかった。いい仕事を残した人である。

京都生まれ。生家西川家から母方の養子となって津田姓を嗣 ぐ。竹川友広、谷口香嶠  に日本画を学び、京都市立染織学校を経て、1899年(明治32)に浅井忠の関西美術院に入る。京都高島屋図案部勤務ののち、1907年(明治40)から10年までパリに留学し、アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学ぶ。帰国後、夏目漱石  に油絵を教え、14年(大正3)には二科会の創立に参加。翌15年、津田洋画塾を開いて京都画壇に一勢力をなした。その後しだいに左翼運動に近づき、31年(昭和6)の第18回二科展に『ブルジョワ議会と民衆の生活』を出品したが、33年の検挙後に転向して二科会を退会。以後はふたたび日本画に転じ、また良寛研究に専念した。晩年は南画風の自由な作品に独特の情趣を示し、また絵画のほかにも、詩、書、短歌、装丁を手がけるなど、幅広い活動をみせた。(日本大百科全書

 

 

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「名言との対話」7月3日。武市瑞山「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」

武市 瑞山(たけち ずいざん。文政12年9月27日(1829年10月24日--慶応元年5月11日(1865年7月3日)は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。

幕末に土佐勤王党を結成し、参政・吉田東洋を暗殺し藩論を尊皇攘夷に転換。京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を果たすが、8月18日の政変で政局が一変すると投獄される。1年8ヶ月後に切腹

現代の思想家・内田樹は、桂小五郎武市半平太坂本龍馬がそれぞれ幕末の三大剣道場の塾頭をそろってやっていたのは司馬のいうような偶然ではなく、剣技の高さと志士としての器量のあいだに相関があったと著者は見ている。彼らは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばいいかがわかる」能力を修業によって身につけていた」という。

武市瑞山に対する同時代の人々の評価をあげてみる。

久坂玄瑞「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」

高杉晋作「あれ(半平太)は正論家である。正々堂々として乗り出すことには賛成するが、権道によって事を成すということは何時も嫌っている」

田中光顕「瑞山先生は桁違いの大人物であった」

子ども頃、「月形半平太」という名前をよく聞いた記憶がある。桂小五郎らと並んで幕末の志士として、漫画や映画などで知られていた。月形半平太という名前は、福岡藩士月形洗蔵土佐藩士武市半平太こと武市瑞山の姓と名をとって合成したものとされ。半平太は女性を魅了する色男として描かれている。宿の玄関先で舞妓の雛菊が「月様、雨が、、」と傘をさしかけると、半平太が「春雨じゃ、濡れていこう」と応えるシーンはよく覚えている。

2010年のNHK「大河」の「龍馬伝」で、龍馬役の福山雅治と、大森南朋が演じた瑞山の好演が記憶に新しい。六尺豊かな美丈夫の瑞山は1歳年下の妻、富子とは睦まじい暮らしぶりであったと描かれている。

切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37。藩主山内容堂は武市へ切腹を命じたことを悔いていた。冒頭に掲げた歌は、武市瑞山の辞世の歌である。

「辞世」を少し深掘りしてみよう。日本には、歌や句などの短詩で生涯を終えるにあたっての感慨を残すという伝統がある。中西進『辞世のことば』(中公新書)から、歴史上の人物の辞世のことばを巡ってみよう。

兼好法師「死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり」

松尾芭蕉「昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、わが生涯いひすてし句は一句として辞世ならざるはなし」

三橋慶女「白露や死んでゆく日も帯締めて」

孔子「鳥のまさに死なんとするや、その鳴くこと哀し。人のまさに死なんとするや、その言ふこと善し」

吉田松陰「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

江藤新平「ただ皇天后土の わが心を知るのみ」

北条時頼「業鏡高く懸げ 三十七年 一槌にして打ち砕き 大道担然たり」

織田信長「人間五十年 下天のうちに比ぶれば 夢幻のごとくなり 一たび生を得て 滅せぬもののあるべきか」

明智光秀「逆順無二の門 大道は心源に徹す 五十五年の夢 覚来めて 一元に帰す」

豊臣秀吉「露と落ち露と消へにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」

上杉謙信「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」

高杉晋作「おもしろきこともなき世をおもしろく」

三島由紀夫「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜風」

在原業平「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」

西行「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」

空也「無覚の聖衆来迎 空に満つ」

一遍「みづから一念発心せんよりほかには三世諸仏の慈悲も済ふことあたはざるものなり」

山上憶良「士やも空しくあるべき万代に語りつぐべき名は立てずして」

黒田如水「思ひおく言の葉なくてつひに行く道は迷はでなるにまかせて」

本居宣長「今よりははかなき世とは嘆かじよ千代の棲家を求めえつれば」

森鴎外「余ハ岩見人森林太郎トシテ死セント欲す」

良寛「草の上に蛍となりて千年を待たむ妹が手ゆ黄金の水を給ふと聞けば」

柄井川柳「木枯や跡で芽をふけ川柳」

他にも。松平定信「今更に何かうらみむうきことも楽しきことも見はてつる身は」。土方歳三「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらん」、、、。

さて、辞世の言葉をどうしよう。