旧古河庭園。古河虎之助の洋館。

先週の渋沢史料館見学の前に、王子駅の隣の上中里の「旧古河邸」を訪問した。

明治元勲・陸奥宗光の別邸であった土地を古河財閥が購入し、洋館と庭園をつくった。陸奥の次男が古河に養子に入ったのが縁。政治家と財閥の関係がみえる。

洋風庭園と洋館は日本近代建築の父・ジョサイア・コンドル(1852-1920)の作品。洋館南斜面に3段に構成されたテラス上の整形式庭園と洋館東側に広がる芝庭なら成る。日本庭園は平安神宮や無隣庵で有名な小川治兵衛(18960-1933)の作品。武蔵野台地の斜面から注ぎ落ちる8mの落差を持つ4段の大滝とそこからの流れに渡された橋、築山と枯滝・州浜と雪見灯籠から成る池畔、茶庭と茶室を主要な構成要素とする廻遊式庭園。いずれも当代の第一人者に依頼するなど、財閥の力は大きいものだ。

洋館は、古河虎之助の本邸として1917年に建てられた。住まいと賓客接遇の場として使用された。1926年に虎之助が新宿に転居してからは、古河財閥の迎賓館となった。1階は賓客を迎える洋風建築、2階は生活の場であり和風建築。洋と和が調和された建物だ。第二次大戦後はGHQに接収され英国駐在武官の館となった。その後、放置されていた。近隣の人は幽霊屋敷と呼んでいた。昭和57年に東京都の文化財となり、平成元年より一般公開となった。1階にはビリヤード室、サンルーム(喫煙室)がある。応接室は見学者の喫茶室となっている。

 

f:id:k-hisatune:20180113104649j:image

 

 

 

 f:id:k-hisatune:20180113104742j:image

 

 

f:id:k-hisatune:20180113104755j:image

 

  この洋館の主の古河虎之助。明治20年(1887年1月1日 - 昭和15年(1940年3月30日)。写真をみるとハンサムという印象。歌舞伎役者が隣に並びたがらない程の絶世の美男だった。妻・不二子は西郷従道の娘で絶世の美女だった。

古河財閥創業者・古河市兵衛の実子。3代目当主。古河財閥多角化に取り組み、総合財閥に発展させた功績がある。市兵衛の晩年の子で、母は柳橋の芸妓。

慶応義塾で小畑篤次郎の薫陶を受ける。普通部卒業後にニューヨークのコロンビア大学に留学。明治38年(1905年)に義兄・潤吉の養子となるが潤吉が36歳の若さで病没し3代目当主となる。また副社長として潤吉を支えてきた原敬も内務大臣就任のため古河鉱業を辞任。虎之助は1907年に帰国。

足尾銅山鉱毒問題で非難の声を漢和するため、1906年、原敬之助言で資金難で設置が危ぶまれていた東北帝国大学九州帝国大学の校舎建設費用の寄付を申し入れた。その総額は5年間で106万円に達した。

第一次大戦では、銅の特需もあり古河虎之助は経営の多角化を推進し20社以上を束ねるコンツエルンに発展。1920年の戦後恐慌で経営が失速。1921に古河商事が破綻、1931年には古河銀行を第一銀行に譲渡し、総合財閥として欠かせない商社と金融機能を失った。一方で虎之助は古河電気工業富士電機製造、富士通信機製造など、後に親会社を上回る大企業を輩出させ、古河財閥は発展していった。1940年に虎之助は53歳で死去。養子である古河従純(西郷従道の次男従徳の次男)が継ぐが、敗戦後財閥解体を命ぜられる。

古阿波財閥の例は、政界と財界が縁戚関係の構築によって持ちつ持たれつの関係にあったのがわかる好例である。

 

f:id:k-hisatune:20180113104719j:image 

 

 「名言との対話」1月15日。大島渚「情報もいいでしょう。でも、生の体験は強い」

大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - 2013年1月15日)は、日本映画監督タレント俳優

京大法学部時代には著名な政治学猪木正道に師事した。京都府学連副委員長として活躍。京大助手試験で不合格となった時、猪木正道からは「君に学者は向きませんよ」と諭された。

卒業後は1954年に松竹に入社。、篠田正浩吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになった。1960年に日米安保条約反対の安保闘争を描いた「日本の夜と霧」が松竹によって上映を打ち切られたことに抗議し翌年退社し、「創造社」を設立。1975年には「大島渚プリダクション」を設立し、「愛ノコリーダ」の制作に着手した。

 大島渚は、因習打破の人、絶えざる革新者、戦闘的リベラリスト様々な言葉で語られる。大島監督の過激な発言とその姿はマスコミを通じてよくみたが、それは映画制作のための資金を稼ぐためだった。

作品は、「愛と希望の街」「青春残酷物語」「日本の夜と霧」「白昼の通り魔」「新宿泥棒日記」「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」、、、。

 

妻の女優・小山明子は大島は世界を目指すという志を持っており、「世界に通用する監督になって、君をエリザベス女王の前に連れて行く」と言ってくれたと語っている。

1976年の「愛のコリーダ」でのあからさまな性表現で国際的な名声を博した。1936年の阿部定事件を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた作品だ。検閲を避けるため日仏合作として撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、カンヌ国際映画祭で上映され話題になった。シカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を余儀なくされた。「『愛のコリーダ』でぼくは燃え尽きました」と大島は語っている。

私は1978から1979年にかけてロンドンにいたのだが、この時確か出張先のドイツで「愛のコリーダ」の無修正版を日本語のままで見た記憶がある。字幕はドイツ語だった。日本人でこの作品をそのまま見た人は少ないだろう。幸運だった。

「人生というのは、どのくらい無我夢中の時間を過ごせるか、で決まると思う」「きっぱりノーと言うことは、人生を楽にしてくれる方法なんです」「今やれることを、今やらなかったら、一生やれないということなんだ」。冒頭に掲げた「情報と体験」もそうだが、大島渚は意外に人生訓がいい。

 

参考:文藝春秋別冊『大島渚-日本を問いつづけた世界的巨匠』(河出書房新社