「副学長日誌・志塾の風」180116
研究室で秘書と打ち合わせ。スケジュール調整。各種連絡。
Tスタジオで録画収録。「ポッドキャスト配信」「平成命日編」
ラウンジ
・金先生:入試関係
・高野課長
「名言との対話」1月16日。秋山庄太郎「職業は紛れもなく写真家。趣味もまた写真。道楽なんだから始末におえない」
秋山 庄太郎(あきやま しょうたろう、1920年(大正9年)6月8日 - 2003年(平成15年)1月16日)は、日本の写真家。
日本広告写真家協会名誉会長、日本写真家協会名誉会長、全日本写真連盟副会長、日本写真協会副会長、日本写真芸術専門学校初代校長、日本デザイナー学院校長を歴任。二科会写真部会員。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章受章。
秋山のライフワークは写真であったが、テーマは二つあった。女性と花である。「花・女」という作品集もある。
45歳頃までは主に「女性」のポートレイトを撮影していた。「秋山庄太郎美女100人」「女の素顔」「昭和の美女」「魅惑の女」などの写真集がある。八千草薫、吉永小百合、藤純子、山口百恵など時代を代表する美女がおさまっている。「そっくりに撮ると”変な顔”、倍くらい綺麗に撮って“少し満足”、ウソみたいに綺麗に撮るとやっと“ニッコリ”、なかなか感謝してもらえませんよ」と美女撮影の難しさを話していたという。
45歳以降は自然や風景を撮影することが多くなり、特に「花」の写真は人生後半の大テーマとなった。カメラのキタムラは、今でも秋山庄太郎「花」写真コンテストを実施しており、グランプリ作品には秋山庄太郎賞を贈っている。2016年の作品集を見る機会があった。グランプリは「ココロに花を咲かせましょう」という作品で、特選では「陽春三彩」「どじょはなみても」「雪中に咲く」などが印象に残った。
秋山は晩年、山形県米沢市にアトリエ「山粧亭」をかまえていた。「山粧というのは紅葉のことをいうのだが、字解きをしていくと、山形の米沢の庄太郎の家ということになる」と語っていた。この縁により、秋山庄太郎記念米沢市写真文化賞が米沢市により主催されている。
東京青山の自宅のアトリエを改装したミュージアムが秋山庄太郎写真芸術館である。秋山の作品展示のほか、写真団体や・写真コンテストの展示を行っている。
何かにはまる人にもランクがあると梅棹忠夫が言っている。最初は「通」、次は「好き者」、そして「道楽者」と順番にはまり具合が深くなるという見立てである。「花と女」という美しいものの写真にのめり込んだ秋山庄太郎は、自分でも「始末におえない」といっており、「極道」という地点にまで行き着いたのではないか。