人事委員会と学部運営委員会。カンカンガクガク、、。

・9時半:人事委員会:非常勤

・10時40分:学部運営委員会:13時までカンカンガクガク。

 

14時半:JMAの池淵さん来訪:総研。知研。地研。図解本。「グローバルリーダー」の改訂の相談。

15時半:多摩大総研松本先生に池淵さんを紹介:多摩大出版会の相談。

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 「名言との対話(平成命日編)」1月31日。芥川也寸志「父(芥川龍之介)が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」

芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本作曲家指揮者JASRAC理事長

代表作に『交響三章』『交響管弦楽のための音楽』『弦楽のための三楽章』。映画音楽・放送音楽の分野では『八甲田山』『八つ墓村野村芳太郎監督)』『赤穂浪士のテーマ』など。童謡では『小鳥の歌』『こおろぎ』など。

芥川賞」に名前を残す芥川龍之介の三男。東京音楽学校予科作曲部に合格したが、校長から呼び出しを受け、「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責される。こういうことはその後も常にあって、「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」。そのやりきれなさや自身への怒りをバネにして父とは違う分野を自分の足で歩いて行く。

ソ連への密入国、アマチュアオーケストラの育成、うたごえ運動の指導者など多彩な活動をみせる。NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演し、ラジオの分野ではTBSラジオ百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で人気は高かった。結婚は3度した。2度目の妻は女優の草笛光子である。

「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」

古事記によるオラトリオ(聖譚曲)をライフワークにしたい」と常々語っていたのだが、時間切れで叶わなかった。ライフワークと寿命との関係を考えさせられる。

芥川也寸志は日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し協会の財政基盤を確立に貢献した。「我々JASRACは、作家を代表して権利を守らなければならない。これは当然のこと。だが一方で、ごくごく安い料金で、あらゆる人が音楽を楽しめる環境を作っていかなければならない」。作家の権利の尊重と少ない負担で多くの人が音楽を楽しめることに力を注いだのである。それは若い頃父・龍之介の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つでもあった。

芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。父は「芥川賞」、息子は「芥川作曲賞」である。また埼玉県松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラがある。芥川龍之介記念館はまだないから、父を超えたということも言えるかもしれない。芥川也寸志は才能と努力と明るい性格で自分を見事に確立したのである。