『世界を知る力』対談篇ーーロシア・ウクライナ戦争

昨日の『世界を知る力』対談篇。ホストは寺島実郎、ゲストは下斗米伸夫(日本人のロシア間観をつくた人)、天江喜七郎(ソ連崩壊時のモスクワ公使。ウクライナ大使)。テーマは「ロシア」。以下、3人の発言の要旨を組み合わせたメモ。

ロシア・ウクライナ戦争の本質は?

  • ソ連崩壊時、エリツインは国境は開くが、核の管理はロシアと決めた。その精神が生かされなかった。
  • ウクライナは欧州とロシアの綱引きの×点。欧州に引っ張りすぎたか、2014年のクリミヤなどロシアが西に追いやった面もある。
  • ウクライナの東半分はロシア的、ロシア正教。西半分はヨーロッパ的、カトリック、農業。
  • ウクライナの耐久力(500日)の源は、農業国であり、コサック魂の存する民衆の力が強い。

勝利なき戦争か? 第三次世界大戦にしてはいけない。

  • ロシアは3日で制圧できると踏んだが読み違えた。西側も陸の帝国ロシアのしぶとさがあることを間違えた。
  • ウクライナNATO加盟問題。賛成は民衆の大半になっている。ポーランド、イギリスは賛成。アメリカ、ドイツは反対。
  • この戦争は外交で解決すべき。グローバルサウス、ローマ教皇などを含めた大きな枠組みを用いて知恵を出して外交で解決すべきだ。

日本の視点?

  • インドの役割が大きい。G20の議長国・インドとG7の議長国・日本の連携が大事。中国の存在も忘れてはならない。
  • 単純にアメリカとNATOに入っていのか。ロシアにもよく考えてくれてると思わせるような、戦後外交の成果を生かして、この戦争を終わらせる側に立つべきだ。
  • アメリカのイスラエル方式も。政治経済的には支援するが、軍事安保は一体ではない。

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「名言との対話」7月24日。芥川龍之介「運は性格の中にある、という言葉はなおざりに生まれたものではない」

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。享年35。

東京都中央区生まれ。一高では久米正雄菊池寛土屋文明倉田百三矢内原忠雄らが同級生。東京帝大文科大学英文科に入学。在学中に仲間と同人誌「新思潮」を発刊し、処女小説「老年」を発表。その後も「羅生門」、「鼻」を発表した。「鼻」は漱石から「敬服しました。ああいうものをこれから二三十並べてご覧なさい。文壇でで類のない作家になれます」と絶賛され、生涯にわたり漱石を尊敬していた。1914年から、自殺する1927年まで63の作品がある。「ばくぜんとした不安」で服毒自殺し、多くの人に衝撃を与えた。主治医は斎藤茂吉であった。短編の名手であった。題材は古典からとることが多かった。速読家で、日本語はもちろん、英文もはやく読めた。

亡くなった8年後から、文藝春秋社を起こした友人の菊池寛が、芥川賞を設けており、現在でも日本最高峰の文学賞となっているから、現在のわれわれも芥川の名前をよく聞く。この賞のおかげで芥川龍之介の名前は不滅となった。

芥川には警句が多い。いくつか挙げてみよう。

  • 「自由は山嶺の空気に似ている。どちらも弱い者には耐えることはできない」
  • 「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うにはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である」
  • 「天才とは僅かに我々と、一歩を隔てたもののことである」
  • 人間に与えられた能力には限界がある。しかしだからといって怠けてゐれば、自分の限界さえも知らずに死んでしまう。高い目標に向かって努力することが尊いのだ。
  • 「皆ゲーテになる気で精進することが必要なのだ」
  • 「人間は自然の与えた能力以上の制限を越えることはできぬ。そうかといって怠けていれば、その制限の所在さえ知らずにしまう。だから皆ゲーテになる気で精進することが必要なのだ」
  • 「完成は読んでそつのない作品を拵える事でではない」「(芥川龍之介「芸術その他」)
  • 「うぬ惚れるな。同時に卑屈になるな」(闇中問答)。
  • 「彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。」(「或阿呆の一生」)

2019年に田端文士村会館で開催中の「芥川龍之介の生と死」展を訪問した。芥川龍之介記念館がないのを不思議に思っていたが、田端に多数の文人がいたことに納得せざるを得ない。東京の文士村は4カ所あった。田端の他は、尾崎士郎の馬込、阿佐ヶ谷、落合だ。大正3年東京美術学校が開校すると、近くのこの辺りは絵描き村になった。それが文士村になっていった。

この企画展は充実していて見ごたえがあった。企画展の章立ては、「芥川龍之介の死生観」「芥川龍之介谷崎潤一郎の文学論争」「芥川龍之介の晩年と死」「芥川龍之介の死と室生犀星」「芥川龍之介の死と堀辰雄」「芥川龍之介の死と家族」「芥川龍之介の死を語る文壇仲間」「現代に生きる芥川龍之介」であった。

会館で買った『芥川龍之介 家族のことば』(木口直子)を読むと、親しい人々の観察から芥川の日常や人柄がわかる。芥川の夢は幼稚園時代は海軍将校、小学校は時代は洋画家。そして一高時代に木の葉が風に揺られて、ひとつひとつが思い思いの形に揺れているのをみた。想像の世界の素晴らしさ、美しさに魅せられて、文学を終生の仕事にしたいと痛切に感じている。

親友の室生犀星は、田端文士村を「賑やかな詩のみやこ」といい、その「詩のみやこの王様は芥川龍之介」と語っている。龍之介という名前は、生年月日時が辰年辰月辰日辰刻だったことによる。芥川の実母は龍之介を産んだ後に狂人となった。芥川は「ぼんやりとした不安」によって自殺したとされるが、その一因は発狂の予感に対する恐怖心にあったかもしれない。「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」「畢竟気違ひの子だったのであろう」。

ジオラマで芥川の自宅が制作されていた。芥川の書斎の8畳間「澄江堂」で(後に4畳半を建て増し)13年間執筆した。日曜日が面会日だったのは、わずか1年あまりで接触が終わった師の漱石の影響だろう。ライジングサンジェネレエションの一人という芥川は「先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、この頃或転機の上に立ってゐられたやうだから。すべての偉大な人のやうに、50歳を期として、更に大踏歩を進められやうとしてゐたから。、、、絶えず必然に、底力強く進歩して行かれた夏目先生を思ふと、自分の意気地のないのが恥ずかしい。心から恥ずかしい」と語っている。(『新思潮』い掲載された「校正の后に」)

「僕のやってゐる商売は、今の日本で、一番金にならない商売です」「人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕らは人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らねばならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである」(大震雑記)。因みに、芥川は鎌倉にいた8月、藤、山吹、菖蒲などの花々が季節外れに咲き誇っているのを見て「天変地異が起こりさうだ」と関東大震災を予言していた。

1924年昭和2年)7月24日、自殺。享年35。わが子への遺書がある。「1.人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。2.従って汝等の力を恃むことを勿れ。汝らの力を養ふを旨とせよ。、、、」

「生前の父が、芸術家ほど苦しい職業はない。この仕事は私だけでたくさんだ。こどもだけは芸術家にしたくない、と母に語っていた、、」「赤ん坊が出来ると人間は妙に腰が据わるね。赤ん坊の出来ない内は一人前の人間じゃないね」と息子たちに語っていた。その息子たちはどうなったか。比呂志(菊池寛から「ひろし」をもらった)は、俳優・演出家。多加志(画家・小穴隆一から)は戦地で若くして亡くなった。也寸志(友人の井川恭から)は作曲家。みな芸術家になり、父の願いどおりにはいかなかった。

「文豪とアルケミスト」(文アル。錬金術師)という文豪転生シュミレーションゲームが人気だ。そのキャラクターが飾ってあった。左右は、太宰治泉鏡花だった。文学書を黒く染めてしまう「本の中の世界を破壊する侵蝕者」に対処するアルケミストたちの物語。最近、記念館をまわるとこういったキャラクターが飾ってあるのを見かけることがある。この世界ものぞいてみようか。

中央公論』の名編集者・滝田樗陰について、『芥川は中央公論』の追悼号で「僕なども始終滝田君に作品を褒められたり、或はまた苦心の余になった先輩の作品を見せられたり、いろいろ鞭撻を受けた為にいつの間にかざっと百ばかりの短編小説を書いてしまった。これは僕の滝田君に何より感謝したいと思うことである」と書いている。滝田は 名力士を取り組ませて観客を熱狂させるというジャーナリズムの本質を知っていたのである。

人物記念館を巡っていると、師弟関係に目がいく。立原道造堀辰雄を兄とし、師とした。その堀辰雄の師は、芥川龍之介である。芥川の師は漱石である。師にも師がいることがわかる。親友の菊池寛芥川龍之介の命日の河童忌(7月24日)に「河童忌や 集まる人も やや老いぬ」という句も後に詠んでいる。

芥川龍之介は「運は性格の中にある、という言葉はなおざりに生まれたものではない」という。「性格」に注目した作家は多い。団鬼六「運命は性格の中にある」。篠田桃紅「性格が一切です」。岡義武「性格は運命をつくる」。小林秀雄「人はその性格にふさわしい事件にしか出会わない」。 伊藤肇「性格がその人の運命である」。

やはり、性格は人の人生をかたちづくる基本ソフト(OS)であると思う。