日経新聞文化欄に知り合い2人ーー「私の履歴書」は浮川和宣さん、「文化」は須藤一郎さん。

日経新聞は、最近は文化欄から読むようになった。

「連載小説」(現在は阿部仲麻呂が主人公の「ふりさけ見れば」)。「文化」。「私の履歴書」。「交遊抄」。「アート」(現在は「アートが映す科学十選」)。

日経新聞は「文化欄」が一番いいので、裏から読むことにしている。今日3月1日は、知り合いが出ているので、嬉しく読んだ。

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私の履歴書」の3月は「一太郎」のジャストシステムを創業した浮川和宣さん。妻の初子さんの名前は、初回だけで6回も出てくる。この欄では男性が仕事について語り、最後に妻や家族のことがでてくるのが一般的だが、今回は妻は仕事のパートナーなので、夫婦の物語になるのが特徴になる。

ジャストシステム時代に、私は東京のオフィスでの浮川夫妻をふくめたミーティングで「図解マスター」というソフトの作成に関わり、監修したことがある。2005年2月に発売されたこのソフトを使っている人に何人も出会った。

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「文化」は「小さな美術館 大きな思い」と題した須藤美術館の須藤一郎さんの記事。B出版社から近々刊行予定の本で昨年インタビューしている方だ。2020年11月に多摩美術大学美術館でのコレクターをテーマとした企画展で2度お会いし、2021年7月には小田原のご自宅でインタビューした。今月は同志であった奥様の追悼展に丹沢湖まで出かける予

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「名言との対話」3月1日。芥川龍之介「運は性格の中にある、という言葉はなおざりに生まれたものではない」

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。

東京都中央区生まれ。一高では久米正雄菊池寛土屋文明倉田百三矢内原忠雄らが同級生。東京帝大文科大学英文科に入学。在学中に仲間と同人誌「新思潮」を発刊し、処女小説「老年」を発表。その後も「羅生門」、「鼻」を発表した。「鼻」は漱石から「敬服しました。ああいうものをこれから二三十並べてご覧なさい。文壇でで類のない作家になれます」と絶賛され、生涯にわたり漱石を尊敬していた。1914年から、自殺する1927年まで63の作品がある。「ばくぜんとした不安」で服毒自殺し、多くの人に衝撃を与えた。主治医は斎藤茂吉であった。短編の名手であった。題材は古典からとることが多かった。速読家で、日本語はもちろん、英文もはやく読めた。

亡くなった8年後から、文藝春秋社を起こした友人の菊池寛が、芥川賞を設けており、現在でも日本最高峰の文学賞となっているから、現在のわれわれも芥川の名前をよく聞く。この賞のおかげで芥川龍之介の名前は不滅となった。2023年に芥川の旧居に記念館が開館する。

芥川には警句が多い。いくつか挙げてみよう。

  • 「自由は山嶺の空気に似ている。どちらも弱い者には耐えることはできない」
  • 「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うにはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である」
  • 「天才とは僅かに我々と、一歩を隔てたもののことである」
  • 人間に与えられた能力には限界がある。しかしだからといって怠けてゐれば、自分の限界さえも知らずに死んでしまう。高い目標に向かって努力することが尊いのだ。
  • 「皆ゲーテになる気で精進することが必要なのだ」
  • 「人間は自然の与えた能力以上の制限を越えることはできぬ。そうかといって怠けていれば、その制限の所在さえ知らずにしまう。だから皆ゲーテになる気で精進することが必要なのだ」
  • 「完成は読んでそつのない作品を拵える事でではない」「(芥川龍之介「芸術その他」)
  • うぬ惚れるな。同時に卑屈になるな」(闇中問答)。
  • 彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。(「或阿呆の一生」)

2019年に田端文士村会館で開催中の「芥川龍之介の生と死」展を訪問した。芥川龍之介記念館がないのを不思議に思っていたが、田端に多数の文人がいたことに納得せざるを得ない。東京の文士村は4カ所あった。田端の他は、尾崎士郎の馬込、阿佐ヶ谷、落合だ。大正3年東京美術学校が開校すると、近くのこの辺りは絵描き村になった。それが文士村になっていった。

この企画展は充実していて見ごたえがあった。企画展の章立ては、「芥川龍之介の死生観」「芥川龍之介谷崎潤一郎の文学論争」「芥川龍之介の晩年と死」「芥川龍之介の死と室生犀星」「芥川龍之介の死と堀辰雄」「芥川龍之介の死と家族」「芥川龍之介の死を語る文壇仲間」「現代に生きる芥川龍之介」であった。

会館で買った『芥川龍之介 家族のことば』(木口直子)を読むと、親しい人々の観察から芥川の日常や人柄がわかる。芥川の夢は幼稚園時代は海軍将校、小学校は時代は洋画家。そして一高時代に木の葉が風に揺られて、ひとつひとつが思い思いの形に揺れているのをみた。想像の世界の素晴らしさ、美しさに魅せられて、文学を終生の仕事にしたいと痛切に感じている。

親友の室生犀星は、田端文士村を「賑やかな詩のみやこ」といい、その「詩のみやこの王様は芥川龍之介」と語っている。龍之介という名前は、生年月日時が辰年辰月辰日辰刻だったことによる。芥川の実母は龍之介を産んだ後に狂人となった。芥川は「ぼんやりとした不安」によって自殺したとされるが、その一因は発狂の予感に対する恐怖心にあったかもしれない。「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」「畢竟気違ひの子だったのであろう」。

ジオラマで芥川の自宅が制作されていた。芥川の書斎の8畳間「澄江堂」で(後に4畳半を建て増し)13年間執筆した。日曜日が面会日だったのは、わずか1年あまりで接触が終わった師の漱石の影響だろう。ライジングサンジェネレエションの一人という芥川は「先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、この頃或転機の上に立ってゐられたやうだから。すべての偉大な人のやうに、50歳を期として、更に大踏歩を進められやうとしてゐたから。、、、絶えず必然に、底力強く進歩して行かれた夏目先生を思ふと、自分の意気地のないのが恥ずかしい。心から恥ずかしい」と語っている。(『新思潮』い掲載された「校正の后に」)

「僕のやってゐる商売は、今の日本で、一番金にならない商売です」「人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕らは人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らねばならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである」(大震雑記)。因みに、芥川は鎌倉にいた8月、藤、山吹、菖蒲などの花々が季節外れに咲き誇っているのを見て「天変地異が起こりさうだ」と関東大震災を予言していた。

1924年昭和2年)7月24日、自殺。わが子への遺書がある。「1.人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。2.従って汝等の力を恃むことを勿れ。汝らの力を養ふを旨とせよ。、、、」

「生前の父が、芸術家ほど苦しい職業はない。この仕事は私だけでたくさんだ。こどもだけは芸術家にしたくない、と母に語っていた、、」「赤ん坊が出来ると人間は妙に腰が据わるね。赤ん坊の出来ない内は一人前の人間じゃないね」と語っていた。息子たちはどうなったか。比呂志(菊池寛から「ひろし」をもらった)は、俳優・演出家。多加志(画家・小穴隆一から)は戦地で若くして亡くなった。也寸志(友人の井川恭から)は作曲家。父の願いどおりにはいかなかった。

「文豪とアルケミスト」(文アル。錬金術師)という文豪転生シュミレーションゲームが人気だ。そのキャラクターが飾ってあった。左右は、太宰治泉鏡花だった。文学書を黒く染めてしまう「本の中の世界を破壊する侵蝕者」に対処するアルケミストたちの物語。最近、記念館をまわるとこういったキャラクターが飾ってあるのを見かけることがある。この世界ものぞいてみようか。

人物記念館を巡っていると、師弟関係に目がいく。立原道造堀辰雄を兄とし、師とした。その堀辰雄の師は、芥川龍之介である。芥川の師は漱石である。師にも師がいることがわかる。

芥川龍之介は「運は性格の中にある、という言葉はなおざりに生まれたものではない」という。「性格」に注目した作家は多い。団鬼六「運命は性格の中にある」。篠田 桃紅性格が一切です」。岡義武「性格は運命をつくる」。小林秀雄「人はその性格にふさわしい事件にしか出会わない」。 伊藤肇「性格がその人の運命である」。

やはり、性格は人の人生をかたちづくる基本ソフト(OS)であると思う。