出版企画の仕込み。脳波測定。新メンバーの学部運営委員会。

「副学長日誌・志塾の風」180314

9時半:人事委員会:非常勤。学科所属。

10時40分から13時まで:学部運営委員会の第0回。新委員長ら。

・金先生:アクティブラーニング。新担当者の仕事について。

・趙先生:離学対策の意見交換。

・良峯先生:脳波に関する共同研究の件の企業との関係を相談。先日購入した脳波測定器で試し中。

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確定申告の内容が確定。

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16時:市ヶ谷のN出版社を訪問。

雑誌編集部の方と書籍出版部長と2時間ほど出版企画を巡る意見交換。持って行った企画とは少し違った形になるだろうが、前向きに検討してもらうことになった。

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「名言との対話」(平成命日編)」3月14日。円城寺次郎「椎名君、日経は新聞も出している会社にしたいんだよ」

圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年4月3日 - 1994年3月14日)は日本のジャーナリスト日本経済新聞社社長

「現状の新聞経営はムダだらけ。魚に例えればおいしい真ん中の身しか食べていない。頭から尻尾まですべて食べるようにしなければ」と総合情報機関を目指した円城寺は、経済部長、政経部長、編集局長、主幹を歴任後、社長8年、会長4年と中枢で長く日経新聞社を牽引した中興の祖である。

日経流通新聞日経産業新聞の創刊で経済の現場のミクロ情報の取材体制を確立した。

日経BP社を設立し、1969年には『日経ビジネス』、1971年には『日経エレクトロニクス』、その後も専門誌を次々に創刊し、専門記者を多く育てた。マクロ経済は日経本紙、ミクロ経済は専門誌という独特の体制を整備した。2006年からは創刊130周年記念でエコノミストを励ます円城寺次郎賞が設けられている。

1963年には社団法人日本経済研究センターを設立し、初代理事長をつとめている。経済を巡るシンポジウムなどを頻繁に開催し、多くの人材を世に出した。

また、円城寺は美術への造詣が深く、インド古代美術展、東山魁夷展などを成功させ、経済だけでなく芸術にも強みを持つ新聞としてのブランドを確立した。2011年に福岡市美術館で開催中の「安宅コレクション 美の求道者・安宅英一の眼」をみたとき、円城寺が安宅英一の最大に理解者だったことを知った。東山魁夷の『唐招提寺への旅』を読んで唐招堤寺御影堂障壁画も円城寺の仲介だったことを知った。

私はビジネスマンだったから、日経新聞を軸に、朝日・毎日・読売・産経・東京・琉球新報など1紙を回しながら自宅で詠むというスタイルを長年とってきた。特に愛読しているのは、文化欄だ。毎日変人が登場する欄(私も2008年に出た)、「私の履歴書」、美術情報、そして連載小説など、実に多彩でいい記事が多い。経済新聞なのに、優れた文化欄を維持しているのは、円城寺次郎の功績だろう。

円城寺次郎は経済審議会会長などの公職も務めるなど、叙勲の対象だったがのだが、「新聞記者は勲章を欲しがってはならない」と、叙勲を辞退しているのもすがすがしい。

その円城寺は「日経は新聞も出している会社にしたいんだよ」と言った。その相手は新聞のコンピュータ化のプロセスで親しくなった日本IBMの椎名武夫だった。