都内各戸に配られた「選挙公報」(東京都選挙管理委員会)を材料に、 東京都知事選の主要5候補(マスコミ)の公約・マニフェストを図解してみた。
授業で都知事選の公約を図解するというテーマで100人の大学生に取り組んでもらっているので、その材料として図を描いてみた。この骨格の図に知り得た情報を加えていくと、それぞれの公約の全体像が見えてくるだろう。たとえば、山本太郎では、東京都の財政がいいので都債で借金をする余裕が十分にあるとか、小池百合子は前回の公約との延長でみるとか、宇都宮健児については、立憲・社民・共産の主張がどこに入っているのかとか、、、。
選管の「選挙公報」にはオリンピック・パラリンピックについては一言も入っていないのは意外だった。
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ジム:スイミング700m
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橘川幸夫『参加型社会宣言』を読了。
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「名言との対話」6月28日。海部八郎「商売なんて簡単やで。お客さんが喜ぶことだけすればええんやから」
海部 八郎(かいふ はちろう、1923年6月29日 - 1994年6月28日)は、実業家。
神戸経済大学(現在の神戸大学)卒。1947年日商に入社。船舶、航空機部門で辣腕を振るった。40歳取締役、44歳常務、47歳専務、51歳副社長と猛スピードで階段をのぼっていった。
1979年ダグラス航空機購入をめぐり外為法違反容疑で逮捕(ダグラス・グラマン事件)される。1980年7月東京地裁で外為法違反と議院証言法違反により懲役2年、執行猶予3年の有罪判決が確定した。以後、日商岩井関連の企業を中心に仕事をした。1994年、70歳で死去。
総合商社日商岩井の海部八郎は、「日商に海部あり」といわれた逸材で、業界が違う私も名前を雑誌などでみかけた。そして副社長時代に起ったダグラス・グラマン事件で、ライバルの丸紅の伊藤専務とともに、名前が知れ渡った。
海部の学んだ神戸高等商業は、中津出身の水島てつ也が創立し初代校長をつとめた三高商の一つである。中津の金谷には水島公園がある。水島の父・均は豊前中津藩士で福沢諭吉の縁戚にあたる人だった。神戸高商の建学の理念は、貿易商社マンの育成とキャプテン・オブ・インダストリーづくりだった。出光佐三はこの学校の卒業生だ。そして安宅英一(安宅産業)、越後正一(伊藤忠商事)、そして日商、兼松、丸紅、などの関西系総合商社のトップを独占する勢いだった。
海部八郎は 入社1年目の創立20周年記念社内論文に応募した「世界貿易の趨勢と機械貿易の将来」で第1位を獲得し、工業化のオルガナイザーだった「鈴木商店」の復活の夢を追うトップに目をかけられる。その後、「一人で日本の船舶輸出の2割を扱った」「1年で30隻も受注した」といわれるほど活躍し、「海部軍団」と呼ばれたチームは航空機商戦でも日本の空を制覇した。海部八郎はエースで四番のスーパーマンだった。友人の戸川猪佐武によれば「自分によい人にはこまかく気を配る」。目上の人を大切にした老人キラーだった。座右の書は「聖書」である。
ダグラス・グラマン事件は、は1978年2月に発覚した日米・戦闘機売買に関する汚職事件である。1979年、 海部は外為法違反容疑で逮捕される。議院証言法違反容疑で再逮捕される。1980年7月24日 には東京地裁判決で懲役2年執行猶予3年の判決がでて、控訴せず刑が確定している。当時は政界、財界をゆるがす大事件だった。
「 商社マンはすべて数字だ」という信念で、社内の政治にはかかわらず、独力で業績をあげ続けた。その栄光の道の先には、凋落も待っていた。
1973年から1978年まで『サンデー毎日』に連載された山崎豊子「不毛地帯」でも主人公の敵役として登場している。私が今回読んだ「捲土重来 海部八郎は死なず」(原田昌範)は、1981年の刊行であり、海部はまだ回天の意気に燃えていると結論づけている。そして死後17年経った2011年にも、仲俊二郎著「我れ百倍働けど悔いなし 昭和を駆け抜けた伝説の商社マン 海部八郎」(栄光出版社)という伝記がでているのは、やはり特別なビジネスマンだったという気がする。 後輩には「商売なんて簡単やで。お客さんが喜ぶことだけすればええんやから」と語っていたそうだ。単純だが、実に名言である。