大学院で修士論文基礎講座--「図解・修士論文の書き方」

多摩キャンパス:ラウンジ

・山本さんとTスタでの企画を相談。座右の銘がテーマ。途中で杉田・趙・小林先生が加わる。

・学部長・学科長連絡会:情報交換。施設全般の使用の見直しをやろう。

研究室

・水谷IR室長:両学部の2018年度入学生の分析結果を聞く。収穫と課題。

・授業評価:春学期「ビジネスコミュニケーション」・秋学期「立志人物伝」とも今までで最も高い数値になった。

 

 品川キャンパス:夕刻から修士論文基礎講座の講義。「図解・修士論文の書き方」。 f:id:k-hisatune:20180405055757j:image

以下、受講生の感想。

 ・図解から文章を書いた。実際に体験してみて、あまりの書きやすさに驚きました。実際に会議で全体合意を得る時には図を使っているが、この外縁が論文執筆に利用できるとは考えていませんでした。先生の講座を受講予定なので楽しみです。

・物事の全体像を俯瞰で捉え、それを図に表現していくことで頭の中が整理できることが理解できました。文章をその図を見ながらいくらでも書けそうな気がしてきました。図の中の部分同士をつなげて、自分の知識や経験をつづっていくことの積み重ねが論文の完成につながることがわかりました。久恒先生の講義で不安がなくなりました。

・船の製作のために設計図があるように文章の設計図として図解を用いることで、構造的な共有や俯瞰的に自分自身を見た際に細部の結びつきの関係も非常に理解しやすくなると感じる。論文を書く際にスキルやハウツーに注力しがちであったが、本質的、体系的に理解するためには、図解は視覚的にも論理的にもスムーズに納得できる手法であると感じた。一点、図に展開した内容を、自分の経験と知識を織り込んで文章に落とし込んでいくプロセスが難しいのでないかと感じた。論文だけでなく、組織や仕事、人生に対しれもこの図解っコミュニケーションは応用できる。

・早速、実践してみたいと思いました。行政の立場にありポンチ絵をつくる機会があり共感できる部分が多かった。今まで修論の構想は文章で考えていました。先生の助言で少しずつ図で表現してみようと思います。ありがとうございました。

・文章はごまかしがきく。「その通り」と思いました。たった2行の文章でも描いた図解が違うという現実。十人十色。図解とは論理の構造である。その論理をベースに文章化する。図解とは「全体の構造と部分同士の関係」である。図解とは関係図である。知的好奇心あふれる講義をありがとうございました。

・図を構成してから文章化することが、論理的に述べやすくなることだと理解できました。特に抜けと漏れがないことをチェックするにも有用であり、修論だけでなく実務でも利用させていただきたい。仕事で学術論文を書くことがあるのですが、次回は図解を描いてrからライティングに入りたい。

・論文を書かなくてはならないという概念のもと、テクニックを優先させた考え方をしてりたが、それ以前のものとして本質的な物の考え方をしなければならないことに気づかされた。全体像をつかみ、それに自分なりの箱を用意し、その箱に、つまり部分部分のピースをつなぎ合わせていく作業が必要に汝Tら。図にすることにより記憶に残り、深掘りできる気もする。その図をそれぞれに分解することで広がりが生まれ、文章を加えていくことで各章の関連性をもたせ論文として成立させることができるか?まだ簡単には理解できていないが、形式・テクニックの前にしなければいけないことをことをこのタイミングで得ることができたのは非常にありがたいことである。ありがとうございました。

・SWOT分析に関する話はすべての人に伝えて欲しいとおもいました。現在ウェブサイトの改修をしっているのですが、つい箇条書きや写真に頼ってしまっていまhした。今一度、図解して考えたい。ウェブの向いている方向にも鵜呑みにしていた自分に来気づきました。チャットを中心としたやり取りが業務上で多いのですが、誤認につながっているのでしょうか?不安になりました。図を主体としたコミュニケーションを意識して行いたい。図にすることで自分では重要だと思いこんでいたもおのが、ある一つに過ぎないことが分かりそう。一度、すべての気になるテーマを図解してみます。質的調査でモデル図をつくりましたが、とても難しく感じた。本をモデル図に落とすことで著者の考えを後追いできるなら、力がつきそうなので、取り組みたい。人生を変えたい。

・長々と文章を連ねることが多かった。苦手でも意識的に構造を図に表現していくクセをつけたい。全体の構造と部分同士の関係を四角や矢印などを使って表現していきたい。

・今まで自分の頭の中で整理できていないことが、図解することで頭の中で整理でき、ストーリー化できることがわかった。自分の知識が数十倍に活用できることを実感した。

・新たな関係性を見つける、足りない構造を見つける。論文の独自性を生み出すために、図解で「今、わかっていること」の構造、関係、全体像を表すこtpが有効だと改めて感じました。修士論文が様々な先生の教えをアンドでつなぐだけというのは自分の学びの姿勢としても反省しました。自分の修論テーマを図解して独自性を毎日考えてみようと思います。ありがとうございました。

・文章を構成する上で全体のストーリーを描くことが大事だと学んだ。全体の構造と各パーツの関係、加えてあるべき姿の構成と関係、現状の構成と関係の差を図に落とし込んで可視化する。それを様々な角度から何度も見直すことで課題の本質を明らかにしたい。部分の関係も表面で見えるものと深い部分の関係を見極めるクセをつけたい。

・住宅の建築と同じく、文章も全体の設計図が必要だ。全体像のイメージができると文章を書くことが簡単になる。関係詞でつなげること。

・論文を書くにはテーマが決まることが非常に重要。自分の論文の方向を決めて、論文に関する関係図を描いてみます。ありがとうございました。

・人の考えやとらえ方によって文章への理解がいかに異なるかが今回の講義でわかった・一つだけ疑問。文章には「順番」がある・図の場合は大量の情報が一気んび入ってくるが、どこから読みとるか?

・大変に興味深い話でした。先に全体像を描くいておれば論じたいことは書けそうだ・

・接続の言葉が大事だとわかった。

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以下、書きかけ。

「名言との対話」4月4日。邦正美「創作舞踊は、運動による空間形成の芸術である

邦 正美(くに まさみ、1908年1月2日 - 2007年4月4日)は、日本の舞踊家である。

創作舞踊家。*哲学博士 *教育舞踊日本研究所教授 *米国加州フラトン大学名誉教授。*東京帝国大学文学部卒 *ドイツ国立舞踊大学卒。ルドルフ・ラバン、メリー・ヴィグマンに師事。日本始め世界各地方でソロ舞踊公演を400回以上

蔚山の裕福な家庭に生まれる[4]釜山中学校在学中に西洋人女性からダンスの手ほどきを受けたのをきっかけに舞踊に興味を持つ[5]開化派の一員だった父親から日本への留学を勧められ、松江高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学文学部で美学を専攻[4][5]。大学在学中に石井漠の舞踊レッスンを半年間受け[4]、1932年には処女作「憂鬱の協奏曲」を東大内のホールで発表し、帝大生が踊ったことで周囲を驚かせた[5]。1933年には、無音楽舞踊(打楽器を伴奏とし動きを主体とする舞踊[6])作品の公演会を行ない、大学に通いながら、夜はプロの舞踊家として舞台にも立ちはじめる[4]

1934年に大学を卒業し、私立大学の美学教師を務めながら、アイヌ舞踊をはじめさまざまな舞踊を学ぶ[5]。1937年に日本政府の奨学金により、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現・フンボルト大学ベルリン)へ留学し、ナチスドイツ宣伝省が設立した当時世界で唯一の国立舞踊学校で学び、ドイツ表現主義舞踊の指導者ルドルフ・ラバンマリー・ヴィグマンらに師事した[4][5]。ドイツ、イタリアハンガリーなど欧州各地で公演を行い、日本舞踊の指導者として活動するほか、朝日新聞の特派員も務め、終戦の1945年に帰国した[4][5]米国戦争情報局(OWI)の資料には、邦はドイツ兵のための従軍慰問団の一員として欧州各地で公演しており、OWIがドイツでの日本の諜報活動の中心人物のひとりと見なしていた同盟通信社ベルリン支局長江尻進(1908-1996)の部下として邦の名前を記している[7]。江尻と邦は同年でともに帝大卒であり、友人関係は生涯続いた[8]ナチスドイツ崩壊後、邦はドイツ残留を望んだが、占領軍ソ連によって日本へ強制送還された[9]

帰国後は舞踊や欧州事情についての本を多く執筆したほか[5]邦正美舞踊研究所を開き、日本国内外で幅広いジャンルのダンス創作や、ダンス教育の活動を展開し多くの人材を輩出した[2]。1960年代にアメリカに移住し[4]1965年にはカリフォルニア州立大学フラトン校名誉教授となり、のちロサンゼルス邦ダンス・ファウンデーションを主宰した[10]

最晩年は日本に戻り、2007年4月4日、老衰のため99歳で逝去した[2]。2013年、妻の江原冨代(1970年にロスで邦の弟子となりその後結婚[11])を理事長に世田谷の自宅に邦正美記念室をオープンし、資料の公開を行なっている。

ドイツ人女性ガブリエラ・ヘルベルトとの間に1941年にもうけた息子の子にアメリカのコメディアンフレッド・アーミセンがいる[12][7]

作品に『黒い星』 (1950) ,『青い鎖』 (1951) ,『神の休日』 (1955) ,『黄色い時間』 (1959) がある。著書には『芸術舞踊の研究』 (1942) ,『創作舞踊』 (1949) ,『ヨーロッパの午後』 (1949) ,『動きのリズム』 (1954) ,『舞踊文化史』 (1968) ,『アメリカは流れている』 (1969) ,『舞踊の美学』 (1973) などがある。

1961年 L.ホートンの死によって空席となったロサンゼルスのニュー・ダンス・シアターの主任教師となり,以後アメリカ合衆国カリフォルニアで活躍した。

 文部省よりドイツ留学(1936年より)
ドイツ国立舞踊大学卒(1939年)後 同大学講師
独フリードリッヒヴィルヘルム大学より哲学博士学位を授与(1942年)
メリー ヴィグマン及びルドルフ フォン ラバンに師事(1936年~1940年)
戦後、日本での創作舞踊の指導に加え米国の大学・欧州各地・南米で舞踊教育に当たる
米国加州州立フラトン大学初代舞踊学部長(1964年~1975年) 名誉教授
日本に於いて舞踊大学講座の開講(1947年~2002年)