大学院で「必ず書ける! 修士論文の書き方」を講義。

品川の多摩大大学院で「必ず書ける!修士論文の書き方」というタイトルで1時間半の講義。秋学期入学性が中心で20名ほど。

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以下、受講した院生の「学び」。

  • 本日のご講義ありがとうございました。書きたい・伝えたい内容があって、その手段としての表現-とても大事な気づきを与えてくださいました。外国語についても同様だと感じました。図解のポイントを踏まえ、論文を形にしていきたいと思います。ありがとうございました。
  • 有意義な講座をありがとうございました。一番印象深く、目から鱗だったのは、「文章より内容!内容重視!」ということでした。ぼんやりしたテーマはあるものの、論文講座を一昨日から受けてきて、いったい何をどうやって書いたらいいのか、戸惑いが大きくなって来ました。また、先生からのアドバイスとして、講義終了後に毎回、その先生のエキスを図にする習慣を持つのがいいとのこと。実践していきたいと思います。ちなみに、年初に脳の画像診断を受けたおり、右脳は大変活発だが、左脳の伝達系番地が弱っているので、その改善に、「今日の出来事を図で書いて説明する」ことに取り組んだらいい」と言われました。今日の講義を聞いていて、なるほどなぁと納得できました。引き続きご指導よろしくお願いいたします。
  • 本日の講義ありがとうございます。先生の図解コミュニケーションの講義を久しぶりに受講させていただきました。図解は、頭の中の考えを、外とに吐き出し、客観的に、論理的にまとめていくツールとして最適だと改めて感じました。キーワードだけでの書き出して、仕分けし、関連性のあるものをまとめることで、より構造が明らかになると改めて学ばさせていただきました。ありがとうございます。
  • ひさびさに久恒先生のお話しを伺い、図を描いて考える、手を動かして考えることの大切さを実感する機会になりました。内容を図解したく、そのための再勉強ということで参加。じつは先生の声を聞きながら、そしてプレッシャーを感じつつ図の下書きをしていました(すみません)。自分だけで気楽に描くと、どうしても四角形の多い、思い込みの強いだけのものになってしまいます。おかげさまで、図のイメージは良い方に膨らみました。1.5時間は有意義な、そしてあっという間でした。ありがとうございました。
  • 半年前にも拝聴しましたが、修士論文への意識が高まったこともあり、自身の理解がより深まったと感じました。その中でさらに教えていただきたいのは、「豊かさ」の図解を紹介いただいた後で朗読された文章で、「要素」と「フレーム」はよく理解した半面、結論に至るまでの高揚を同じ図解に表記するには?という点です。文章=内容x表現 と学びましたが、関係性を示す「→」のような図の太さなどで抑揚も表記できるのでは?と思った次第。
  • 他先生の講義は一方的な情報発信であり久恒先生の講義は普段の授業のように実践を通し体験から学ぶスタイルでとても身になる講義でした。本講義では文章(論文)=内容+表現の内容を焦点に置き内容の中核には自分のメッセージを込め図にして考えをまとめ図を文章にするプロセスの話だったと思います。また、このメッセージが重要との話もあったかと思います。個人的には語学が苦手です。語学が苦手で大学の進路をあきらめたぐらいです。そんな自分が大学院の入試のエッセイを書けるはずがないと思い、毎日、テーマを決め文章を書く練習をしました。1カ月ぐらい続けていても、うまく書けない!期日も迫り追い込まれたとき、自分が身に付けたスキルで文章を上達することが出来ないかと思い図だけで表現した提案書はお客様に響いて採用されたことを思い出し図で文章をまとめられないかと思いついたのが始まりです。そこから、設計のノウハウを活かし、文章を細分化して部品にして、部品を線でどのような関係性があるか図にして分析部品の断捨離を行い、そして、骨格を作り他の部品を肉付け仕上げようやく納得するものができました。私はシステムエンジニアなので図を用いてアイデアを膨らませます。このやり方が自分にあったやり方だと気づきました。それから、重要な場面ではテーマを図で設計するようになり文章に落とし込み仕上げるようになりました。こんな体験から、久恒先生の言葉は自分のなかに素直に浸透していき、楽しい時間を過ごさせていただきました。あと、論文基礎講座の各先生の資料より少ないページですが心に残り、内容を覚えているのは久恒先生の資料になります、修士論文に向けて、久恒先生から学んだ手法をもっと自分のものにして活用していきたいです。
  • 日頃から物事を考える時、流れとイメージを大切にしています。だから、記録の方法や記載の方法を工夫をしているわけです。表にしたり、カテゴリーに分けたり、項目にしたり。そこに先生の「文章では人に伝わらない」「伝わるはずがない」は、インパクトがありました。その通りだと思いました。さらに、信念に基づく言い切りは説得性を高めます。論文にも活用します。さらに、私は教員なので教授法としても使います。図解なので、過程と到達点が明確になりますね。すぐ、即、取り入れます。お疲れ様でした。
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品川駅、20時過ぎのコンコース。

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オーディブル池波正太郎「男の作法」

ラジオ「声でつづる昭和人物史」。安藤百福1・2。

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「名言との対話」3月31日。朝永振一郎「業績があがると否とは運です。先が見えない岐路に立っているのが吾々です」

朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年明治39年)3月31日 - 1979年昭和54年)7月8日)は、日本物理学者

東京都文京区生まれ。父が京都帝大の哲学の教授となり京都で育つ。三高、京都帝大卒後は、無給副手。1931、年理化学研究所研究員。ドイツに留学。1941年、東京文理科大学教授。1947年、「繰り込み理論」を実証で解明した。このことが1965年のノーベル物理学賞の受賞につながる。1956年、東京教育大学学長。1963年、日本学術会議会長。

長岡半太郎の弟子の理研の仁科静雄は湯川秀樹朝永振一郎という2人のノーベル賞受賞者を育てている。仁科芳雄博士が弟子の朝永振一郎に語った言葉「業績があがると否とは運です。(中略)ともかくも気を長くして健康に注意して、せいぜい運がやってくるように努力するよりほかはありません」。仁科からはドイツ留学中に仕事の行き詰まりの時に泣き言を言ったら励ましの手紙をもらった。その時期とはいつか。もしかしたらライバルの湯川秀樹ノーベル賞受賞時ではないだろうか。

朝永振一郎 見える光、見えない光』 (STANDARD BOOKS)を読んだ。専門の物理学の本ではなく、エッセイなので読みやすく、かつ考え方がわかるので楽しく読んだ。朝永はエッセイの名手ともいわれている。

日本学士院会員は国鉄パスがもらえる。朝日賞ではかなりの賞金が出る。朝永はこれを使って当時務めていた学校や自宅につかっている。こういうことがわかるのはエッセイだからだ。

同期生で日本初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹についての記述が興味深い。

「同じ方面に関心を持つ同級生に、湯川秀樹さんがいたことは大きな力ともなり、大きな刺激にもなった。ときには刺激が強すぎて、いささか閉口したこともあったが」。「湯川さんは、この洪水の中ですでに自分の進路を発見していたように見えた。すなわち、次に来るものは原子核と場の量子論であるという見通しを、このときすでに立てていたように思われる。そして彼はこの方向に向って、着々と自分のペースで進んで行った」。「彼は考えごとに熱中しだすと、机をはなれて部屋の中をぐるぐるとまわりはじめる。学問に対するこの 傍若無人 な集中ぶり、、、、」。

そして、後になって、「今だから白状するが、湯川理論ができたときには、してやられたな、という感情をおさえることができなかったし、その成功に一種の 羨望 の念を禁じ得なかったことも正直のところ事実である」と語っている。

とびっきりの秀才で、理研からも有望として湯川でなく、朝永が指名されたのだが、本人の心情は揺れ動いている。

「そのようなむつかしい分野に進む野心はとても起らない。何かもっとやさしい仕事はないものか、何でもよいからほんのつまらないものたった一つだけでもよいから仕事をし、あとはどこかの田舎で余生を送れたら、などと本気で考えていた」。

理研からの誘いがあったときには、「湯川さんのように早くから自分の進むべき路を見出すことができず、あれこれと迷っていた者にとって、それは決定的な機会であった」と語っている。

理研。「とても東京の連中にはついて行けないような気が相変らずしている」。「自分はつまらない無用者なのだ、自分のようなものが大それた学問などやろうと思ったのは結局やっぱりまちがいだった、といった想念がいつも心の底にこびりついている」。

秀才にも自分の能力に対する疑念が絶えずあることがわかる。そしてライバルとの関係も微妙であることがわかる。

原子力については、「やることによって悪い方に使用されるという責任と、やらないことによって、もっと人間が幸福になれる」「妨げるという責任──この二つの責任を感じて、僕たちはハムレットのように悩む」と書いている。これは湯川と同じである。

「業績があがると否とは運です。先が見えない岐路に立っているのが吾々です」という言葉は、天才たちが競う最先端の原子物理学の研究者の厳しい世界を示している。仁科静雄記念館を訪問した時にも湯川と朝永の名前があった。そして本多光太郎の伝記では湯川より朝永を買っていたこと、そして湯川秀樹自身も朝永の秀才ぶりに圧迫を受けていたことを知った。明と暗と、快と鬱。天才型の湯川と名人型の朝永。彼らは世界を先導する素粒子論の世界を切り拓いた。天才と秀才という対比ではなく、天才と名人という対比を私も使いたい。日本の物理学界を牽引した二人の物語には今後もアンテナを立てておきたい。