国立映画アーカイブで、開館記念の「旅する黒澤明」展。--「映画は世界の広場だ」

2018年に国立近代美術館から独立した国立映画アーカイブで、開館記念の「旅する黒澤明」が開催中だ。国立映画アーカイブは、5800枚のポスター。705000枚のスチール写真。46000冊の映画図書、、などのアーカイブ

「映画は世界の広場」だと語っていた黒澤明の作品は欧州、北米、中南米、アジアなど世界中で公開されている。「没後20年 旅する黒澤明 槙田寿文ポスター・コレクションより」。

今回の展覧会は世界30ヵ国の84点。「姿三四郎」から「まあだだよ」までの作品の各国のポスター。欧州20ヶ国、南北アメリカ5ヶ国、アジア・中近東4ヶ国、オセアニア1ヶ国。ポーランドや旧チェコスロバキアなど東欧のポスターは大胆な表現だが、これは、「共産圏の時代、映画ポスターは芸術家に表現の自由が比較的認められた分野だったから」と岡田主任研究員は日経「文化往来」で語っている。

 

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 展示されているポスターは黒澤明の研究家である槙田寿文氏のコレクションだ。

 槙田は高校2年で「七人の侍」をみてファンになり、1978年19歳の時大学の映画サークルで黒澤監督の自宅に突撃し、丁寧な対応を受ける。それから資料収集が始まる。90年代初めにニューヨークに赴任し、本格的に収集を開始。

黒澤に喝采 海外ポスター 現地で製作、国際色豊かな150枚収集 槙…|エンタ

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槙田はJ-LOP事務局次長。日系商社で米国駐在。米国大手食品メーカー日本法人CFO、米国大手医療機器メーカー日本法人CFOを経験。J-LOPは、クール・ジャパン戦略の一環として、総務省経済産業省が実施している「 ジャパン・コンテンツ ローカライズ&プロモーション支援助成金」。

「黒澤作品は世界で広く一般の人に見られており、日本映画の中で圧倒的な広がりをもつ。その世界を理解してほしい」。

ライフワークとしての黒澤研究が誰も見たことのない一つの世界を形づくった。その志の延長線上に現在の仕事があるようだ。

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「名言との対話」6月26日。田淵節也「自分なりによく勉強して、史観というか大局観を身につけること、自分がいまどんな時代に立っているかを的確に位置づけることが第一」。

田淵 節也(たぶち せつや、1923年10月25日 - 2008年6月26日)は、野村證券(現・野村ホールディングス)の社長、会長を歴任した日本実業家

野村徳七が創業し、奥村が天守閣を構え、瀬側が城壁を築き、北浦が外堀を埋めた。田淵の仕事は城下町を作って、野村城を更に強固なものにすることだと考えた。

社長室に直径1mほどの地球儀を置き、豊富で正確なデータを積み上げ、その延長線上に本質や未来の姿がくっきりと浮かび上がってくる優れた洞察力で、情報資本主義時代を予測し、来た球を思い切りようスイングせよ、見逃し三振はいかんとハッパをかけながら、野村證券を「世界のノムラ」に変貌させた。

田淵は公平無私で仕事に臨んでいる。その栄養源は小説だ。愛読する作家は、山本周五郎、城野宏、山本夏彦など。座右の銘は、「美点凝視」。人の美点を凝視し、他の会社の美点を凝視する。それは「気がついたら即刻変えろ。、、改悪になってもいいから変えろ。、、変化は即改善」という方針になっている。

前社長の北裏からの引き継ぎは「野村證券は設立され五十数年間流れ続けてきた地下水は一度も汚されていない。清流が流れている。これを絶対に汚しちゃいけなう」だけだった。人事の活性化である。絶えざる若返りである。「雑草のような教育から頭角をあらわすタフな人物じゃなめれば指導者にはなれない」と言っていた田淵は後任社長に田淵義久を指名する。区別するため社内では「大田淵」と呼ばれていた。

この後任の「ミニ田淵」を日航時代に社内報の社長対談で招いたことがある。山地社長から「時の人だ。よく引っ張りだしたね」と言われたことを思い出す。このとき、朝7時になると社員が活動し始める野村証券は日本トップの利益をあげていた注目企業だった。

歴史認識と時代認識を持つこと、そして変化に対応していつでも自己革新できる人間になること。新しいものや変化に対して、自分の皮膚で接触すること。まず飛び込んでみること。岸で見ていたら間に合わない。そういったリーダー像が田淵節也自身であった。

 

田淵節也・経営語録 知の戦略・人の哲学―情報・人材王国野村證券の秘密

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