「イサム・ノグチ」展--彫刻から身体・庭へ

東京オペラシティ・アートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ」展。

 

1「身体との対話」:北京で斉白石から墨絵を学ぶ。そして人体のデッサンの上から墨太くなぞる「北京ドローイング」と呼ばれる一連の素描を描く。唐三彩にも惹かれる。日本では埴輪に関心を持つ。「玉錦」「えらいやっちゃほい」。

2「日本との再会」:1950年再再来日。45歳。前回は26歳。1951年に映画スター山口淑子(1920ー2014)と結婚し、北大路魯山人の北鎌倉の農家で新婚生活。後に離婚。陶器による彫刻・テラコッタ(陶彫)に熱中。岐阜県美濃地方の和紙と竹を巣材に愚夫提灯をモダンな「あかり」として」甦らせた。「光の彫刻」である。

3「空間の彫刻--庭へ」:1907年の初来日。鎌倉周辺の禅寺で庭に目覚める。1931年の来日では京都の寺で日本庭園をみる。「庭は空間の彫刻」。石の彫刻と大地の相互作用で「庭」という空間を創り出す。

4「自然との交歓--石の彫刻」:石の役割。玄武岩花崗岩御影石)。高硬度の石が「世界の創造」にかかわる「宇宙の根本物質」とみあんし、「石」の声を聞く。」大地の歴史の「時間の凝縮」を感じとる。

「彫刻は不完全でいい。完成させるのは遊ぶ子どもたちや、季節、自然である」

私は2010年末に映画「レオニー」(松井久子監督)を観ている。原作は、ドウス昌代「オサム・ノグチ−−宿命の越境者」(講談社文庫)。イサム・ノグチ(1904-1988年)の母の物語である。父・野口米次郎と母・レオニーの物語で、悲しいイサムの生い立ちがよくわかるストーリーだった。この映画を観ているから、イサム・ノグチには親近感がある。

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イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、日本名:野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。日系アメリカ人。

父親の野口米次郎は有名な英詩人、小説家、評論家、俳句研究者であった。母親のアメリカ人の作家で教師のレオニー・ギルモアについては、後年「僕の人生に、もっとも影響を与えたのは母親だった。母の苦労と、母の期待が、僕がいかにしてアーチストになったかと深く結びついているはずだ」とイサムは語っている。2010年に公開された日米合作映画「レオニー」はイサム・ノグチを育てた母レオニー・ギルモアの物語である。ドウス昌代イサム・ノグチ 宿命の越境者』に感銘を受けた松井久子監督が7年の歳月をかけて完成させた作品だ。私はこの映画の中で神奈川県茅ヶ崎での生活、不登校となったイサム、そしてイサムの芸術的才能に気づきアメリカへ送り出す母親の愛情、、などを興味深く観た。

第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際にはイサムは自らアリゾナ州日系人強制収容所に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち日本人社会から冷遇されたため、収容所からの出所を希望するのだが、日本人であるとして出所はできなかった。イサム・ノグチは二つの祖国を持っており、その悲哀を経験している。

「彫刻は不完全でいい。完成させるのは遊ぶ子どもたちや、季節、自然である」「肝心なのは見る観点だ。どんな物をも、一個の古靴でさえも彫刻となるものはその見方と置き方なのである」

ノグチは多作な彫刻家であり、ユネスコの庭園(パリ、1958年)、チェース・マンハッタン銀行ビルの沈床園(1964年)、IBM本社庭園(1964年)、、イェール大学ベイニッケ(バイネギーレア)図書館の沈床園、、、など世界中を舞台にし、1987年にロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲している。日本でも、門(東京国立近代美術館、1962年)、オクテトラ、丸山(こどもの国の遊具、1966年)、万博記念公園の噴水(1970年)、つくばい(最高裁判所内、1974年)、天国(草月会館内、1977年)、土門拳記念館の庭園(1983年)、タイム・アンド・スペース(高松空港、1989年)、ブラック・スライド・マントラ(1992年)、モエレ沼公園(1988年 - 2005年)、イサム・ノグチ庭園美術館など膨大な仕事を残しており、1986年には日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞している。

イサム・ノグチは、1969年からは四国香川県の五剣山と屋島の間にあり庵治石の産地の牟礼町にアトリエと住居を構え、以降20年余りの間、ニューヨークとを往き来し制作に励んだ。1999年にできた「イサム・ノグチ庭園美術館」を訪ねたが予約制だったので入れず、外から見物したことがある。ノグチは「地球を彫刻した男」と呼ばれたのだが、自身は最大の彫刻は地球の自然であると語っている。ノグチの最大の師匠は大いなる自然であったのだろう。

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「名言との対話」。前田武彦「言葉は時として刃物より鋭く人を傷つける」

前田 武彦(まえだ たけひこ、1929年昭和4年〉4月3日 - 2011年平成23年〉8月5日)は、日本の男性タレント放送作家司会者

 1953年5月にNHKがテレビの本放送を始めた。前田武彦は前例のない未知の世界の探検家たちと新しい世界にこぎ出した一期生だ。当時活躍した人たちは一芸に秀でる人、知性、ユーモアに富んだ大人ばかりだった。徳川夢声柳家金語楼菊田一夫、三木鮎郎、古川ロッパ中村メイコ宮城まり子フランキー堺、、、、

前田武彦は、テレビの台本、ラジオの脚本、を書くことから始まった放送作家の一期生であった。「光る海 光る大空 光る大地 ゆこう 無限の地平線」で始まるテレビ漫画「エイトマン」の作詞が初ヒット。ニッポン放送「ヤング・ヤング・ヤング」。フジテレビ「夜のヒットスタジオ」。「笑点」の二代目司会。「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」など、毒舌のまじる司会は人気があり、私もよく見ていた。

ところが、共産党宮本顕治書記長との対談後の、参院選補欠選での共産党候補の応援で、「夜のヒットスタジオ」で問題を起こす。高視聴率をたたき出していたマエタケの貢献を評価し現場は「おとがめなし」に傾いていたが、女性誌が「共産党バンザイ事件」と報じ、それがフジ鹿内信隆社長の耳に入り、以降完全に仕事をほされてしまう。

2003年、テレビ50周年で書いた本が『『マエタケのテレビ半世紀』だ。食えない貧乏生活から、次第に頭角を現し、絶頂期を迎え、凋落していく姿が描かれている。この本の中では、ライバルたちの活躍をみるマエタケの姿が目に入った。

4つ下の永六輔。「ボクは当分コントしか書きません」と自分の意見をはっきり言う態度だった永はラジオ番組のパーソナリティタレント随筆家放送作家作詞家として大活躍した。

3つ下の青島幸男。コントの台本新進ライターだったが、「青島だあ」と人を食ったセリフで世に出た。その後、作家作詞家タレント俳優放送作家映画監督を経て政治家になり、最後は東京都知事になった。

5つ下の大橋巨泉。ジャズ評論家として出てきたが、テレビ番組司会者ラジオパーソナリティ放送作家エッセイスト競馬評論家音楽評論家、時事評論家、馬主政治家参議院議員)、実業家・芸能プロモーターと華々しい人生を送る。

このような年下のライバルたちと比較しながら、「それにくらべて、俺は」という空気がこの本には見て取れる。啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ」の心境だ。

「テレビの還暦まで生きていたら続編を書いてもいいな」と『マエタケのテレビ半世紀』の最後で書いている。それは2013年なのだが、マエタケの寿命は2年ほど届かなかった。

「言葉は時として刃物より鋭く人を傷つける」の後には、「刃物の傷は薬でなおすことができても、言葉による心の傷は治療がむずかしい。それなのに刃物で人を傷つけた場合のように罪に問われることはあまりない。そのせいか、人の心を傷つける言葉は世の中に平然と使われつづけている」が続く。

前田武彦は言葉で世に出て、人気の絶頂で、その言葉で滑り落ちる。言葉は人も傷つけるが、自分をも切りつける凶器だ。そのことを知り抜いていても、ワナに落ちることがある。

参考『マエタケのテレビ半世紀』(いそっぷ社)。