芸に遊ぶ--マダム貞奴と川上音二郎、福沢桃介

茅ケ崎市美術館で「川上音二郎貞奴展」が開催中だ。茅ケ崎はこの二人が家を建てて住んでいたことと、音二郎の没後100年、貞奴の先端140年であることにちなみ記念展覧会を催した。
茅ケ崎は政治家や大富豪が田舎の別荘を建てる土地として開けつつあった。この美術館は、鉄道の駅と海の間を走る主要道路の近くにあり、松の木が多くある美しい林の中にある。この地がこの二人が過ごした場所である。音二郎40歳まじか、貞奴は31歳だった。新居の晩松園は貞奴の若い頃のパトロンだった伊藤博文がつけてくれた。

マダム貞奴(1871年生まれ)という俳優として欧米で有名な女優は、葭町の芸者であった。葭町は今の人形町にあたる。あの吉原である。
貞奴は生涯に於いて二人の男性と縁を結ぶ。一人は、夫であった気鋭の演劇改革家で新派を創生したオッペケペー節の川上音二郎(1864年生まれ)であり、もう一人は初恋の相手でもあり後に愛人として晩年を過ごした電力王・福沢桃介(1968年生まれ)である。
「向こう見ずな人」と奴が述懐した音二郎は、川上座を立ち上げ、その後国会議員に立候補し落選、そして破産する。貞奴はどんなに突飛な案であっても夫を誠実に支持していた。日本の妻であった。

劇団を率いてアメリカで巡業することになり、総勢19名で1899年に神戸から出航する。川上の女房として手伝いに行くだけのつもりであった。しかしアメリカでは女優がでなければならない。貞奴は女優にならざるを得なくなる。川上一座は西海岸、東海岸などで数々のトラブルに見舞われながらも、ともかくもアメリカで成功する。折からの日本ブームの中、ワシントンでは小村寿太郎公使の引きでマッキンリー大統領にも会っている。

そしてロンドンに乗り込み話題になり、ヴィクトリア女王と謁見している。
彼らは万国博覧会が行われているパリに行く。貞奴の美しさと華麗な演技はヨーロッパ人を虜にした。
彫刻家ロダンは快活で驚くほど完璧な芸術である貞奴に彫刻にしたいと申し出たが、断られている。
31歳の作家アンドレ・ジードは、貞奴の演技を6回も見ている。
作曲家ドビッシーは貞奴の琴の演奏を聞き、交響詩「海」に取り入れた。
画家ピカソ貞奴のポスターを描いている。

作曲家プッチーニは「蝶々夫人」を書いていたが、貞奴の演技をみて骨格に命を吹き込むことに成功した。
画家パウル・クレーは、「全てが愛らしい。本物の妖精だ」と語った。

1年1か月のヨーロッパ滞在中、71都市で、休みなく一週間に7日の講演を行った。空前の歴史的巡業となった。
ジャーナリストのルイ・フルエニは、1889年の博覧会の目玉はエッフェル塔であったが、1900年の万博の目玉はマダム貞奴だったと最大級の賛辞を送っている。

慶応の学生だった福沢桃介は、14歳の貞奴の乗っていた馬の暴走をとめて貞奴を救った。それが互いの初恋の相手となった。桃介は福沢に見込まれて愛娘ふさと結婚する。福沢の悪意のある支配から脱するために苦悩する。桃介は株取引によって富豪になった。
音二郎の大阪「帝国座」建設の頃からスポンサーの一人となった。この頃から二人は再会する。
音二郎は病に倒れる。帝国座の「この舞台に起つべき模範俳優を養成したい(のが)おれの理想だ。もしおれが死ねば、お前(貞奴)はおれの遺志を継いでくれろ」と遺言を遺している。

46歳で引退し、47歳の貞奴は、ただの川上貞として50歳の桃介と暮らすようになる。出会ってから30年以上の歳月が経っていた。
桃介は経営危機にある会社を立て直す名人であった。速い川の流れの多い日本は水力発電に適していると考えた桃介は、電力王になっていく。貞奴はその桃介を助けて木曽プロジェクトや大井ダムを成功させている。彼は70を超える会社の社長となった。
貞奴自身も、川上絹布会社を設立、川上児童楽劇団、女優養成所(1908年。貞奴所長。帝国劇場付属技芸学校へ)などの事業も展開している。

貞奴がヨネ・ノグチ(野口米次郎・イサム・ノグチの父)などから受けたインタビューを読むと、外国の演劇や国民性についての観察は鋭く、優れた知性の持ち主だったことがわかる。
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貞奴62歳の時に、20年以上一緒に暮らした桃介をふさのもとに返す。
そしてそれから10年以上経った1946年に日本の女優第一号の川上貞奴75歳の生涯を閉じた。

 兎も角も隠れすむべく野菊かな