春学期の授業の成績付けの日。

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大学:研究室で春学期の成績付けを行う。学部と大学院。

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「名言との対話(平成命日編)」8月6日。上原康助「沖縄の問題を中央で語るためには歴史を学び、現場に行くこと」

上原 康助(うえはら こうすけ1932年9月19日 - 2017年8月6日)は、日本政治家労働運動家

1932年生まれ。高校卒業後、沖縄米軍に就職し、労働問題に目覚める。全沖縄軍労働組合連合会を結成し、1961年初代委員長に就任(28歳)。1964年沖縄県労働組合協議会が結成され、副議長。1970年、戦後初の国政参加選挙で社会党公認で衆議院議員に当選。1972年の沖縄の日本復帰後の総選挙で2期目当選、以降1996年まで連続10期の当選を果たす。1993年の細川連立政権国土庁長官、北海道・沖縄開発庁長官に就任。1998年、民主党入党、2000年総選挙で落選。国政政界を引退。30年にわたり国政の立場から沖縄問題の解決に尽力した。

自伝『道なかば』(琉球新報社)を読みながら、沖縄問題の根深さと苦闘の歴史を改めて知った。本土復帰時には、1ドル360年レートではなく、沖縄では305円換算となり、大変な物価高騰を招いている。また1978年7月30日に「交通方法の変更」が実施された。33年余も親しんできた「車は右、人は左」とは正反対の「車は左、人は右」に切り換わって大混乱が起こった。心労で当時の平良幸市知事が倒れ任期半ばで辞任。この日は「ナナサンマル」として記憶されている。

国土庁長官時代には、沖縄北部拠点都市の目玉であった名桜大学の事業を推進している。多摩大のインターゼミで訪ねたことがきっかけとなって、この大学と協定を結び、学生の交流が活発になっている。

「沖縄が国策に翻弄されて、市民、県民同士が対立するのは避けたいものだ。沖縄の将来を考えて第三の道を模索してみてはどうだろうか」が、2001年に出版されたこの本の末尾に記載されている。「あとがきにかえて」では、冷戦の延長から脱し「北東アジアの安全保障構想を再構築して、その円形で沖縄の役割分担を創造してこそ、実質的な基地の整理縮小に資する道だ」と記している。

「歴史と現場」を学べとは、沖縄の玉城デニー衆院議員に語ったアドバイスである。こ沖縄問題には特に有効であると思うが、この指針は対象を学ぶための貴重な指針である。「文献研究とフィールドワーク」という研究の方法論を、上原康助はより切実で強い表現で語ったのだ。 

道なかば

道なかば