午前:荻窪の出版社に、預かっていた書籍と収集した「天皇」関係の本を届ける。
新著『新・深・真 知的生産の技術』(NPO法人知的生産の技術研究会編)が2月中に刊行される。編集作業がようやく終了。
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学部・大学院の成績つけ修了。
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午後:湘南キャンパス:グローバルスタディーズ学部運営委員会に陪席。
:研究費。離学。ゼミ。卒業。TOEIC。事業計画。入試。就職。実質。
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夕刻から:大和の「鳥清」、スナック「樺」で弟と痛飲。今日はカラオケの歌の調子が良かった。
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「名言との対話」1月31日。芥川也寸志「音楽というものはね、人間が生きていくうえでなくてはならないものなんです」
芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。
作家芥川龍之介の三男。東京音楽学校(現、東京芸術大学)研究科卒業。1950年に「交響管弦楽のための音楽」でNHK創立25周年記念懸賞の管弦楽作品として特賞入賞、これが出世作となる。
1953年に団伊玖磨、黛敏郎とともに〈三人の会〉を結成、前衛的な音楽を発表した。一方、ラジオ劇や映画音楽の作曲、テレビの司会者などとして幅広く活動した。TBSラジオ「100万人の音楽」(サントリー提供)では野際陽子とともに司会をつとめた。
1981年から日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長を務め、放送局と交渉し著作権擁護などに尽力した。「文化というものは人間ひとりひとりがいかに生きがいを持って素晴らしく生きてゆくかということに尽きるのではないか」「文化政策というものは政治経済を突き抜けた、人間の生き方を問う問題である」と衆院文教委員会で述べている。
音楽による民衆の連帯を目的とした「うたごえ運動」と、良質の音楽を勤労者の耳に届けることを目的としていた「労音」にも力を入れた。「音楽はみんなのもの」という思いからであった。芥川也寸志が関わった労音の音楽会には子どもの頃に母に連れられて私も参加したことがある。芥川は生涯で100本を超える映画音楽を作曲した。1971年刊行の岩波新書『音楽の基礎』は版を重ねているベストセラーだ。
主な作品は管弦楽の「交響三章」、映画音楽の「砂の器」「八甲田山」「八つ墓村」など多数。 また演奏家にとってホールは楽器のようなものであると考え、1986年のサントリーホールの開場にも尽力している。そういった縁もあり、芥川没後、サントリー音楽財団は日本人作曲家の管弦楽曲が対象の「芥川作曲賞」を設立した。父は小説、息子は音楽で、賞を残した。
「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していると。 結婚を3度したが、2度目の妻は女優の草笛光子である。肺癌のため逝去したときの最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか、、、あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。
冒頭に掲げた言葉は、NHK「音楽の広場」の中で、子どもが「どうして音楽ってあるんですか?」という問いに答えた名言である。