「池大雅」展。「織田有楽斎」展。「緑川洋一」展。「ザ・倶楽部」の会合。

今日は都内を駆け巡った。有楽町の出光美術館、六本木のサントリー美術館、最後は新宿というルート。

夜は久しぶりに「ザ・倶楽部」の会合。1990年あたりから30年以上続いている仲間たち。場所は新宿サザンタワーの「響」。NTT、自営業(写真家)、東京ガス小学館JR東日本サントリーソニーJALで活躍したメンバー。これなかったのは、日経新聞ニッポン放送

本日が誕生日の人を含め、みんなそろって70代に突入。「病気の話はご法度」として始まったから、愉快な時間となった。

私からは雑誌「イコール」の話題と執筆依頼をした。それぞれの組織で自由に活動した「らしくない」人たちだから、「今、何をしてますか」というテーマがいいかも。「和の講座」「写真術」などの企画も浮上。

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午後。六本木ミッドタウンの『生誕300年記念 池大雅ーー陽光の山水』展。文人画の巨匠、与謝蕪村(1716-84)、伊藤若冲(1716-1800)と並ぶ池大雅(1723-76)の大企画展。素朴でおおらかな画風を堪能した。

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六本木ミッドタウンのサントリー美術館で開催中の「大名茶人 織田有楽斎ーー正伝永源院の寺宝」展。織田有楽斎(1547-1621)は織田信長の弟で、武将として、茶人として、信長、秀吉、家康という3人の天下人の時代を75歳まで生き延びた稀有の人物。400年遠忌の企画だ。遠忌(おんき)とは50回忌以上をいい、100回忌以上になると各宗派の開祖、中興の祖、寺の開基などが対象となる行事。有楽斎は京都の正伝永源院の開基だ。

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ミッドタウンの「フジフィルムスクエア 写真歴史博物館」をのぞくと、「光の魔術師 緑川洋一 瀬戸内のメルヘン」展をやっていた。

岡山での人物記念館巡りで、1992年に開館した「緑川洋一写真美術館」を訪ねようとしたことがあるが、既に閉館していた。ようやく緑川洋一(1915-2001)の写真に接することができた。「この瀬戸内海が一番美しい」と緑川が語っていたとおりの写真だった。本業の歯科医のかたわらのアマチュアカメラマンとして出発し、1962年に『瀬戸内海』という写真集でいくつかの賞を受賞している。

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「名言との対話」2月16日。船村徹「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」

船村 徹(ふなむら とおる、1932年6月12日 - 2017年2月16日)は、日本作曲家歌手日本音楽著作権協会JASRAC)会長、日本作曲家協会理事長横綱審議委員会委員。享年84。

「別れの一本杉」(春日八郎)「王将」(村田英雄。戦後初のミリオンセラー)「兄弟船」(鳥羽一郎)「なみだ船」(北島三郎)「女の港」(大月みやこ)「東京だョおっかさん」(島倉千代子)「みだれ髪」(美空ひばり)「矢切の渡し」(細川たかし)など、今も歌い継がれる数々の名曲の作曲家である。

手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。歌謡曲の作曲家として2016年に初めての文化勲章を受章している。受章理由は「多年に渡り歌謡曲の作曲家として、個性的な数々の優れた作品を発表するとともに、関係団体の要職に長くあって、我が国音楽界の発展向上及び後進の育成に多大な貢献をしてきており、その功績は極めて顕著である」とされている。弟子は300人と多く、「船村徹同門会」がある。

2015年にオープンした「日本のこころのうたミュージアム船村徹記念館」は3階建てで、道の駅日光街道ニコニコ本陣に併設されている。2017年3月に訪れたが、亡くなった直後でもあり、また場所も行きやすいこともあり、訪問者も多かった。船村が亡くなった2月16日は戦死した兄の命日でもある。

船村徹の84年の人生を眺めると友人の存在が大きかったことがわかる。大学在学中に知り合い26歳の若さで死んだ二つ上の親友高野公男は船村のヒット作「別れの一本杉」を作詞している。高野が早逝した後、船村は「あいつの分まで生きる」とし、「高野の無念を思えば、私は彼の分まで生き、二人で誓い合った夢に向かって、歌を書き続けることが、自分の使命だと思っている」と決意した。

この人は社会活動もいい。演歌巡礼。刑務所訪問。作家活動。横綱審議会委員。「山の日」提唱者(日本山岳会会員)。故郷の産廃施設反対運動を支持。、、、。

2018年の2月16日にBSで船村徹追悼番組をやっていたのをみた。平昌オリンピック羽生結弦の圧巻のショートの演技がくり返し映像で流れる中で懐かしく、船村徹作曲の歌を聴いた。

夭折した親友・作詞家高野公男の「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」という言葉が船村の指針となった。船村徹の歌には栃木弁のアクセントがあり、地方出身者の悲哀や希望を込めた叙情豊かなメロディーが大衆の心をつかんだのである。