国立西洋美術館「キュビスム展  美の革命」

国立西洋美術館キュビスム展  美の革命」。

パリのポンピドゥーセンターの所蔵作品の大企画展。ピカソ、ブラックからドローネ、シャガール、その後のキュビストの作品を鑑賞した。

内容については、図録(3500円)を読み込んでからレポートする予定。

キュビスム

  • 幾何学的に平面化された形によって画面を構成する試み。(主催者)
  • 複数の視点を用いたり、幾何学的形態に単純化された「図形によってグリッド(格子)状に画面を構成することで、描かれる対象を再現的、模倣的、写実的に描写する役割から解放し、より自立的な絵画を作り出した美術運動。(田中正之

私は、キュビスムを「対象を部品にばらして、本質をあらわすために、再構成する方法」として理解している。「図解コミュニケーション」の考え方と同じだと共感してきた。セザンヌで萌芽をみせ、ピカソ、ブラックの二人が、あらゆるものは立方体(キューブ)でできているという革命的な見方の転換を図った。その流れは、抽象画にもなり、そして絵画だけでなく、彫刻、版画、映像などにも大きな影響を与えてきた。

 

この美術館創立のきっかけとなった松方コレクションを残した松方三郎の肖像画をみかけた。いつもみる写真とは少し違う印象だ。

 

この美術館の設計者ル・コルビジュの名前をもじったメニュー「ル・コレビジュプレート」を食べた。

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朝:ヨガ教室で1時間、汗をかく。

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「名言との対話」10月14日。本居長世なんだ坂 こんな坂」

本居 長世(もとおり ながよ、1885年明治18年)4月4日 - 1945年昭和20年)10月14日)は、日本作曲家。数々の童謡で知られる。

東京生まれ。本居宣長の6代目にあたる。生後すぐに母と死別父が家を出たため、父母の愛情を知らなかった。育てた祖父の国文学者になってほしいとの期待に反して、音楽家を志す。

東京音楽学校では、山田耕筰と同期であったが、長世は全学年を通じて首席を通している。教え子に中山晋平藤山一郎がいた。

西洋風であった文部省唱歌にかわり、日本の伝統を生かした童謡が人気を博していた。

長世の代表作は、「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」、「十五夜 お月さん ご機嫌さん」で始まる「十五夜お月さん」、「汽車ポッポ」などだ。

本居長世は、近世邦楽の音階や旋律に工夫を凝らし、西洋音楽の技法を駆使することによって、新しい作品世界を作った人である。

また、3人の娘、みどり、貴美子、若葉を童謡歌手にし、10数年かけて全国津々浦々、台湾、朝鮮、樺太などを回っている。昼は学校で、夜は公民館で演奏会を開いた。そして関東大震災時のアメリカの好意への返礼で、アメリカやハワイでも公演を行っている。

沼津市本居長世記念碑がある。西条八十作詞、本居長世作曲の童謡「残り花火」の一節が刻まれている。「作曲家本居長世は沼津をこよなく愛し毎年夏にはこの地を訪れ海の生活を楽しんだ 春彦書」との金田一春彦の説明がある。。金田一春彦は、旧制高校時代に長屋の作った歌曲に感動し押しかけ弟子となった人だ。本居長与も、金田一春彦も、偉大な祖先や父をもった者同士の共感があったのだろう。

国文学者の本居宣長を生んだ松坂市には、本居長世メモリアルハウスと呼ばれる本居長世記念館がある。これは金田一春彦安西愛子などが中心となって作ったものである。

東京の目黒不動には、本居長世の碑がある。説明には、「童謡は、第一流の作詞家が子供のために詩を書き、第一流の作曲家が子供のために曲をつけた日本の文化財です… .。」とある。金田一春彦藤山一郎安西愛子芥川也寸志五木ひろし由紀さおり高峰三枝子高橋圭三竹下景子団伊玖磨森昌子森繁久彌山川静夫などの名前が掲載されている。

生涯の作曲数は650から800曲とされている。また活発な活動をみると、「日本童謡の祖」という以上の存在であったようだ。

「汽車ぽっぽ」には、「なんだ坂 こんな坂」という言葉がある。蒸気機関車がまるでセリフを喋っているかのような場面だ。この程度の坂はなんだという強がりを言いながら、懸命に急勾配の坂を登っていくという描写になっている。これは箱根の坂を上っていく様子を描いたものらしい。全国行脚の途中の東海道線の中で作り宿で記した歌だ。この作詞も長与である。箱根の急坂を必死に登っていく蒸気機関車のような思いで、長世は60年の生涯を送ったのではないだろうか。

国文学者の家であったということも、西洋風の文部省唱歌に飽き足らず、日本の伝統からエキスを抽出し、日本独特の童謡に結実させたことに影響をしているのではないかと思う。

幼い頃に母をなくし、父とも接触がなかったというこの人の生い立ちと、その後の活動を見ると、童謡の道に情熱をかけたことがわかる気がする。いずれにしても、大正以後の子どもたちの心に大きな影響を与えた業績は比類がない。