「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロル。

そごう美術館「不思議の国のアリス」展。ルイス・キャロル

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 企画展を見てきたが、私の関心は作者のルイス・キャロル(1832-1898年)にある。「不思議の国のアリス」ほど名高い物語は世界にない。イギリス人は必ず読んでいる。その名作を書いたのは、オックスフォード大学の数学講師だ。オックスフォードでも名門のクライストチャーチに所属し、特別研究員となり、一生独身のまま学寮生活を続けた人だ。

キャロルは学寮長の3人娘と仲良くなる。アリスは2番目だ。1862年アイシス川でも水遊びで即興でお話をした。これはいつものことだったが、とりわけ面白かったので、10歳のアリスから本に書いて欲しいと言われ、徹夜で書き上げる。

1866年に出版すると、イギリスだけでなく、世界中の子どもたちや大人も楽しませた。日本では明治維新の直前にあたる。

ルイス・キャロルはいくつもの顔を持っている。数学者・論理学者のキャロルは相手の言葉を切り取って話の筋をねじ曲げる対話、論理的因果関係や分類は究極のへりくつとしている。言葉の魔術師のキャロルは、いたるところにこちば遊びをしかけている。キャロルは当時の第一級の写真家だった。筆まめで30歳前から65歳で亡くなるまでの期間に98721通の手紙を書いたほど筆まめだった。自然全般について博識な人。芝居好き。時代潮流に敏感でヴィクトリア時代の目新しいものを作品に取りこんだ。

「アリス」以前の子どもの本は最後に「教訓」があった。この物語は子どもたちに楽しみを提供したという点でまったく新しい作品だった。人々は「アリス」を愛した。

 「不思議の国のアリス」を読んでみた。最後のシーンは感動的だ。 「あーあ、すごくへんてこな夢を見ちゃった!」とアリスはお姉さんのひざに頭を乗せて土手の上で寝ていたのだ。お姉さんは、アリスの素晴らしい冒険を回想しながら、考える。アリスは実り豊かな年月を経て大人になっても、夢にあふれた素朴な子どもの心を失わないでしょう。自身の子どもに珍しい話をして、その目をキラキラ輝かせるでしょう。アリスは自分自身の子ども時代の幸せな日々を思い出すでしょう。この最後のお姉さんの夢物語は美しい英文で読むべきだそうだ。それまでの子どもの本は、最後が教育的な訓示だったから、まったく逆で、新鮮だっただろう。

1994年の調査によれば、『不思議の国のアリス』と続編『鏡の国のアリス』が翻訳された言語の数は、実際に話され・その言語による出版物があるものに限定すれば62、部分訳や未出版のもの、点字や速記体によるものなども含めれば137におよび、一人の作家の翻訳としては世界一である。2019年の今日でも「不思議の国のアリス」展が開催され、多くの来訪者を獲得しているのは壮観だ。アリスは今も生き続けている。ルイス・キャロルは偉業を成し遂げたのだ。

「アリス」は物語にマッチしたテニエルの挿絵が素晴らしい。現在の画家たちはテニエルを感じさせない絵を創造することをテーマとしている。

 「不思議の国の物語」と「鏡の国の物語」日本語訳は、1998年時点で150種前後が存在しており、現在も訳者とイラストレーターとを様々に組み合わせた多数の『アリス』が書店に並んでいる。この作品の派生効果は甚大で、舞台、漫画、映像、絵本などになっている。また、ミステリー、SFなどにも影響を与えている。

私の読んだ本は脇陽子訳だ。あとがきで「生きることに決して器用とは言えなかったキャロル」というフレーズがある。この点はもう少し知りたいところだ。

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))

 

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午前:大学

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「名言との対話」9月30日。多々良純「私は元気だ」

多々良 純(たたら じゅん、、1917年8月4日- 2006年9月30日)は、日本俳優

宮城県石巻市出身。1936年10月、新築地劇団に入所、同期に殿山泰司千秋実小山源喜らがいた。戦争中はアジア各地を転戦。戦後の1947年宇野重吉滝沢修らが結成した民衆芸術劇場(第一次民藝)に参加。続いて1950年発足の劇団民藝に加わり、『かもめ』『炎の人』などに出演。1952年に民藝を退団してからは映画俳優として活動を始める。アクの強い芸達者な脇役として地位を固め、渋谷実監督の『現代人』、黒澤明監督の『七人の侍』、久松静児監督の『警察日記』といった名作に出演した。善人役から悪役までこなす名脇役として活躍した。1956年には『あなた買います』『鶴八鶴次郎』などの演技で第7回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞している。映画・舞台のほか、1960年代からテレビドラマにも盛んに出演した存在感のある俳優だった。

この人の出演した映画とテレビドラマのリストをみると気が遠くなるほどの量だ。

俳優事典をひもとくと、「こつけい味を持った風ばうは、好人物役にも、また、小悪党などにも似合い、芸域の広さは玄人好みで、貴重なわき役として戦後の日本映画界に存在感を示してきた」と高い評価を寄得ている。

石巻市が市制施行五十周年を記念して制定した初の市民栄誉賞に、喜劇俳優由利徹と共に選ばれた。「九つのころまで過ごした石巻のすべてが、今は懐かしいだけ」 と古里への思いを語った言葉が印象に残る。             

一癖も二癖もある役が似合っていた。頑固ながら根は優しい役などに定評があり、軽妙な役もこなせる貴重な脇役だった。多々良純は60年以上活躍したから、この人の顔はよく覚えている。

脇役とは能楽の主人公を引き立てる役の「ワキ」からでた言葉だ。脇役という存在は、名前は定かではないが、いろんなところに出ている、という印象を与える俳優たちだ。たとえば、「半沢直樹」の香川照之、「孤独のグルメ」の松重豊。ミステリアスな演技の柄本佑、「踊る大捜査線」稲葉敏郎など。また「龍馬伝」の岩崎弥太郎役をやった蟹江敬三は「自分が出るシーンは自分が主役」との考えだった。「わたしの脇役人生」というエッセイを書いた澤村貞子もいる。これらの名脇役たちの特徴は、出演作品の多さだ。圧倒的に仕事量が多い。多々良純の出演作リストをみると、どこまでも続いていて驚いてしまった。

多々良純の俳優活動を支えてきたのは丈夫な体である。40歳を過ぎてから世田谷にあった前の自宅に私設体育館を建てるなど、健康に気を遣ってきた。自ら考案した多々良式ストレス解消体操」は有名だ。著書には「多々良純の催眠体操」、「私は元気だ」、そして「多々良純のぐうたら怠操入門」などがある。この本の副題は「減量しながらタフになる」だ。「怠操」とは面白い。長く仕事をした人には、それぞれ独自の健康法がある。自分はこれで元気なのだという信念があるように感じることが多い。「私は元気だ」は彼らの合言葉だ。思い込みと日々の努力が元気の源だろう。