ライフワーク「人物記念館の旅」が900館に到達。

2005年から本格的に始めた「人物記念館の旅」も、もう15年目になる。9月の勝海舟で900館となった。1年平均で60館になる。

宮城大時代は、2005年から、70館。60館。76館。多摩大時代は、2008年から、46館。53館。76館。64館。61館。75館。60館。60館。43館。64館。40館。そして2019年は9月末現在で43館になる。ここまできたら、できるだけ早く1000館まで到達したい。

一覧表。

http://www.hisatune.net/kinenkan/kinekan_list.htm

地図。

http://www.hisatune.net/kinenkan/kinekan.htm

50音順

http://www.hisatune.net/kinenkan/kinekan_list50_2.htm

 この旅から生まれた著作は、2010年の「遅咲き偉人伝」。2017年の「偉人の命日366名言集」。2018年の「偉人の誕生日366名言集」、「100年人生の生き方死に方」。2019年の「心を成長させる名経営者の言葉」、「平成時代の366名言集」などがある。

 独自の情報源、自分だけの名所旧跡。私の泉から、たくさんの水を汲みだしていきたい。

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「名言との対話」9月29日。山崎豊子「はげ山に木を一本一本植林していくような、いわば『植林小説』を書いていきたい」

山崎 豊子(やまざき とよこ、1924年大正13年)1月2日 - 2013年平成25年)9月29日)は、日本の小説家

 日本橋高島屋で開催中の「追悼 山崎豊子展--不屈の取材、情熱の作家人生」をみてきた。JAL時代に「沈まぬ太陽」執筆にあたって取材を受けたことを思いだしながら、膨大なそして優れた小説を書き続けた壮絶な作家人生をたどった。

33歳の処女作「暖簾」、翌年の34歳で直木賞を受賞した「花のれん」から最後の作品「約束の海」を書くまでの壮絶な人生である。
1924年生れ、2013年に89歳で死去した。2014年には最後の長編小説「約束の海」が発行された。直木賞を受賞した時、毎日新聞学芸部の上司の井上靖から「橋は焼かれた」と言われ、新聞社を辞め筆一本で立つことになる。井上からは、あせらないで、自分のペースで、数は少なくとも力作を期待していると励まされる。

直木賞受賞の時の言葉がいい。「一種の負担と義務を感じる。はげ山に木を一本一本植林していくような、いわば『植林小説』を書いていきたい」。その後、山崎豊子井上靖の言葉をいい意味で裏切って、膨大な力作、壮大な問題作を世に問い続けるのである。総発行部数4200万部。(文庫本・翻訳本を含む)。翻訳国は6ヵ国11作品。「不毛地帯」は5000枚の最長の長編小説だった。取材人数は5300名。名刺交換は4000枚。取材ノートは980冊。取材テープは5500本。

山崎豊子の真骨頂は取材力だ。取材ノート、創作ノートなどを興味深くみた。スクラプブックにはエールフランスの食事メニュー、吉兆の献立などが貼ってある。「二つの祖国」執筆時には、ハワイ日系人年表をつくった。今回、最近見つかった20歳から21歳の間の日記が展示されていた。「作家になりたい」ということと、好きな人の出征の時の交流が書かれていた。

1992年にNHKのスタジオパークで収録した映像では、あの戦争で生き残った者として何をしなければならないか、そういう問いを胸に秘めながらの疾走人生だったと語っている。「大地の子」だけでも、取材は500名、中国取材3週間、国内取材1年間に及んだ。詳しい「進行表」という年表が、この作家の創作の鍵でもある。中国では共産党総書記の胡耀邦に取材がうまくいかないと率直な態度で批判した。胡耀邦は驚きながら「中国を美しく書いてくれなくてもよい。中国の欠点も、暗い影も書いて結構、ただしそれが真実である限りは」といい、取材の便宜を図る。「不毛地帯」は朝10時から午前1時まで最低でも12時間を費やしている。377名に取材している。カセットレコーダーも何台か展示されている。だんだん形態が小さくなって最後はマイクロカセットレコーダーになっていく。

1991年に「大地の子」を書き終えた時、山崎豊子は67歳。もうこれ以上は書けないと、自分を育ててくれた名編集者・斉藤十一に訴えた時のやり取りが感動的だ。「芸能人には引退はあるが、芸術家にはない。書きながら柩に入るのが作家だ。」「、、、私の生前香典として、香典原稿を一作戴きたい」山崎は、位負けして、約束する。それが次作の「沈まぬ太陽」だった。「沈まぬ太陽」全5巻では40冊以上の取材ノートを使っている。この作品は読んでいる。特に御巣鷹山の事故の克明な取材と抑制のきいた表現には感動したことを思いだす。また、国民航空の主人公恩地のかつての友人でもう一人の主役の行天は、労働組合、広報、企画というルートをたどっており、私のたどった道と同じなので、興味深かった。沈まぬ太陽」を書くための取材を受けた記憶がある。取材を受けているという感じがしない、自然体の対応だった。この小説の御巣鷹山日航機事故のシーンは本部の対策本部にいた私も感嘆した内容になっていた。書いたものの重厚さと本人との落差に驚いた経験がある。この小説が出た頃には私は辞めて仙台の宮城大にいたが、地元の有力者からは親しくなると必ず「沈まぬ太陽」の内容は事実ですか、とよく聞かれた。「労働組合の側からみると、あのように見えるだろうとも思う」と答えるようにしていた。私は実際に身近で見ていた会社側の立場だったから、違う見方だが、歴史や真実はどこから見るかで変わってくる。

私がJALの広報部からサービス委員会に移った後、山崎豊子の取材を受けたことがある。
このノートの中に私の名前もあるのだろう。あの時、本人と秘書や数人の取り巻きがいた。
山崎本人はニコニコしながら聴いていただけだが、秘書たちがメモをとっていたのだろうか。今考えると、広報部の須藤副部長が同席したが、事故後のサービス委員会が中心となった全社のサービス改革の姿を見せようとしたのだろう。その内容は、この小説には載らなかった。

野上孝子秘書が書いた「山崎豊子先生の素顔」(文芸春秋)には、山崎に気に入られていた須藤さんのことが書かれていた。文芸春秋2013年12月号に「山崎豊子先生の素顔」というタイトルの追想が載っている。野上孝子は秘書として50年山崎豊子のそばにいた人だ。「白い巨塔」「華麗なる一族」「大地の子」「運命の人」「不毛地帯」「沈まぬ太陽」などの作品を書いた巨匠の人柄は、「理不尽で我儘な態度」「意見なきものは去れ!」「給料泥棒」「自分勝手」「懲りない人」「恐ろしい」「努力家」「ストイック」「ええカッコしいの大坂人」「どこか憎めず、チャーミング」「千両役者」「突破していく」「お世辞抜き、社交辞令抜き」。小説の「進行表」はB4大の原稿用紙に場面ごとにおおよその流れを書き込んで何枚も貼りつけ最終回まで見通せるようにしていた。俯瞰する。まず一番、大切なことからしようという考えの持ち主。、、。

カラオケもやるのだそうだ。なかでも3つがオハコだった。灰田勝彦「煌めく星座」。「男純情の、愛の星、、、」淡谷のり子「雨のブルース」与謝野鉄幹「人を恋うる歌」。中でも「人を恋うる歌」の「妻をめとらば 才長けて みめうるわしく なさけあり 友を選ばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱、、」がお気に入りだった。

2013年のNHKクローズアップ現代山崎豊子特集をみた。秘書の野上孝子の「刻むように向かっていた」との言葉が印象的だった。一つの長編に6−7年かける。その間、他のものは一切書かない。作品ごとに自分を超えていく作風。取材で得た事実と自らのイマジネーションの往復でイマジネーションを超えていったのである。

企画展の「不屈の取材、情熱の作家人生」という副題に深く納得する。「はげ山に木を一本一本植林していくような、いわば『植林小説』を書いていきたい」と植林を志した山崎豊子だが、長年の努力精進によってその志は豊かな木々に彩られた巨大な森を生んだのだ。 

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)