リレー講座:吉田大輔先生(メディアラボ代表)。「民主主語はインターネットを生き残れるか」

午後:リレー講座。吉田大輔先生(メディアラボ代表)。「民主主義はインターネットを生き残れるか」ーー分断された人々をつなぐ」。

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・インターネット(1995年)で分断が可視化された。2010年代のSNSは。リコメンド情報も含めて近い人同士のつながりを強めた。人々が一団となって段階的に押し流されてしまうサイバーカスケード、有敵構造へ。少数派の尊重が重要な民主主義の危機だ。

・自己紹介:2002年朝日新聞入社。社会部記者。東南アジア。新聞を読まない人々にどう伝えるか?。デジタル担当のエディターとしてアニメ、動画、文字などを統合した木維持に挑戦。デジタルメディア企業へ転身。2019年メディアコラボを設立し代表。

新聞:日本の新聞業界はこの15年で2.5兆円から1.6兆円と36%ダウン。デジタル収入は200億円で1.2%に過ぎない。新聞業界は2009年に2.1万人だったが、自然減のみで10%ダウンの1.9万人。アメリカは2008年の7.1万人から2017ねんの3.9マン人と45%ダウン。これから、新聞社の倒産の時代が始まる。

・デジタル時代:生活インフラとして40代以下はインターネットが最大。新聞記事はyahoo、twitterで流れていく。何をどう書くか、より、どう届けるのか、その効果はあるおかがメインになってきた。

・1999年ONA(オンラインソシエーション)設立。参加は個人単位で記者、技術者、ビジネスマン、研究者など1600の分科会。2017年にジャパンを設立。ジャーナリストの役割は行動をまき起こしていくこと。今のニュースメディアのキーワードは「トラスト(信頼)」だ。信頼性と収益性の両立ができるか?

・アンケート「ニュースメディアは権力の監視をしているか?」。ドイツ「一般人37%。ジャーナリスト36%」イギリス「一般人42%、ジャーナリスト48%」、、、日本は一般人17%、ジャーナリスト91%」という結果であった。

・20世紀は個別メディアの時代。21世紀はプラットフォーマーの時代。fb、youtube、yahoo、スマートニュース、、。全メディアがプラットフォームに入っており、利益はそちらに入る。日本のIT関係の広告の50-705は外国の企業に流れている。日本のメディアは儲けられない。利益が上がらない収益構造。

フェイクニュースが蔓延。ミスインフォメーション現象。アメリカ大統領選から始まった、フェイクの方が多い情報戦。広告収入が入るでっちあげサイトのレベルがあがり見分けがつかなくなってきた。ファクトチェックが必要だ。日本は危機感が薄く遅れている。ニュースをシェアする人13%、コメントする人8%で日本ではニュースがゆっくり拡散する。世界ではシェア40%、コメント30%。

・記事の中身ではなく、配信と行動においてIT企業に負けている。小池「衆院選に100%でない」、安部「自衛隊違憲と教科書に載っている」は、正確には間違った発言。ファクトチェックが必要だ。専門のファクトチェックテクノロジーなどもでてきた。

・インターネットは情報の民主化を進めた。一方で情報があふれ(量)、プラットフォーマーが強くなり、情報の質の担保ができなくなった。

・メッセージ「自由な報道は民主主義の要だ」「現場はインターネット、そこに希望がある」

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午前:こえラボの岡田社長との12月分のインタビュー録音作業。渋沢栄一白洲次郎坂本龍馬トルストイ

昼休み:多摩大総研ミーティング。松本。長島。

午後:知研の高橋さん。知的生産の技術研究会50周年記念フォーラム。2020年10月17-18日。案の決定。

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「名言との対話」11は初14日。向井潤吉「風景の面白さは、時、所、季節の動きにつれて千変万化するところであろう。、、、それへの興味がいつまでも現場主義から私を解放してくれぬのである」

向井 潤吉(むかい じゅんきち、1901年明治34年)11月30日 - 1995年平成7年)11月14日)は日本の洋画家

1993年、世田谷区の自宅を兼ねたアトリエとその土地、所蔵の作品を区に寄贈し、世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館が開館した。木造の気持ちのいい空間である。向井潤吉は93歳まで日本の民家を描くことをライフワークとした画家だ。訪問した時には「制作日誌」を分析した結果が掲示されていた。それによると2月ー4月、10月ー12月に制作が多い。また描いた場所は、埼玉(32%)、長野(19%)、京都(13%)、岩手(7%)。「私の仕事のはかどる季節は、初冬から5月の間に限定されている。それは民家を描くためには繁茂した木や葉が邪魔になるからであるとともに、緑という色彩が自ら不得手だと知っているからでもある。」

以下、民家に関する言葉を拾った。「日本の民家の美しさ、こういう風土でしかできない形の美にはじめて気がついた」「せめてなくなる前に、昔からの民家のよさを絵に残しておけば何の役に立つのではないかと考えた。だから終戦と同時に、暇にまかせて民家だけを描くぞと決心」「まず娘が学童疎開していた新潟県川口村からはじめた」「私が最も好むのは、信州から東北へかけての、大振りの農家の点在する地方である」「私の民家を扱う気持ちにも徐々と変遷があった。、、、むしろ家を大切にしながらも、その家を取り囲む風土風景を主とするようになってきたのである」「、、民家と、その所在する界隈との調和、風土風物の組み合わせに重点がかかってきた」。

1952年朝日新聞の「茶の間」に寄稿した「職業」というエッセイが面白い。子どもの頃のから画家になるとしたが、次は外国航路の船員。、、、兵隊を出てから高島屋百貨店、、、そして画家になる。「しかし世間の人々の職業というものは、親ゆずりや、独特の天凛の才があればとに角、大半はフラフラ腰で左右している中に、なんとなく決まってしまい、それで結構本人も納得しているのじゃないだろうか」。

柳田国男民俗学柳宗悦の民芸、そして向井潤吉の民家。この民家の画家は、描き残した民家は1000軒を超え、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされる。

アサヒグラフ別冊「向井潤吉」を読んだ。1974年に開催された『画業六十年向井潤吉還流展』の図録の巻末には「私は私なりのささやかな反抗と試行錯誤を繰り返して来て、それが決して徒労でなかったことに心づき、1人の平凡な画家として、これもまた一つの道であったということを改めて考えます」と語っている。親交のあった森繁久彌は、絵描きは精神が高邁で、かつ鷹揚だという。中でも向井先生は、菩薩様のような人だと書いている。

 

「民家と私」という小エッセイには、北は留萌から南は知覧まで歩き民家を描いたこと、そして「未知の農山漁村に、夢と望みをかけてあせらずに遍歴のスケッチを続けていく。なおしばし体力のつづく限り」と書いている。私も訪れたことにある小豆島。倉敷。上ノ山。遠野。、、などの作品を眺めた。

 風景は静止していない。風景は移ろっている。その風景が現場であった。民家の画家・向井潤吉は現場主義の人であった。 

アサヒグラフ別冊 第4号 美術特集:向井潤吉

アサヒグラフ別冊 第4号 美術特集:向井潤吉