10時:杉田先生から相談。
10時40分:授業:立志人物伝。テーマは「怒涛の仕事量」。漫画家を取り上げた。手塚治虫。石ノ森章太郎。藤子不二雄。赤塚不二夫。矢口高雄。長井勝一。米沢嘉博。
昼:樋口先生:近況交換
午後:ZOOM会議のための勉強。マックブックでどうにかやれる目途。帰宅後、藤原てい「流れる星は生きている」を読む。
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20時から1時間半ほど日本未来学会の大会のためのZOOM会議。ポスト人間主義。3月1日。シンポジウムと参加型ワークショップ。綱領。技術・構想・欲求。未来学会の未来イメージ。記録とアウトプット。計画。SF大会。実践的構想。提言。公文塾。未来フェス。、、毎週ZOOMミーティングをやろうということで散会。
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「名言との対話」11月15日。藤原てい「流れる星は生きている」
藤原 てい(ふじわら てい、1918年11月6日 - 2016年11月15日)は、日本の作家。
夫は作家の新田次郎(本名・藤原寛人)、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。
「1945年の敗戦とともに満州(現、中国東北部)から、日本まで、3人の子をかかえ、はるかな道のりをたどった、著者の魂の記録。かつて100万人が体験した満州引き揚げをえがき、戦後の大ベストセラーとなった傑作ノンフィクション!」と紹介されている小説『流れる星は生きている』はベストセラーとなった。帰国後、遺書のつもりで書いた本である。
新京(今の長春)から、奉天(今の瀋陽)、宣川、平壌、開城、38度線、京城、釜山、そして博多、故郷の諏訪までの1年余にわたる引き揚げの苦難の記録である。1945年8月9日から1946年9月12日の博多到着、、、。満州、北朝鮮、南朝鮮、、。38度線でのソ連兵、越えてからのアメリカ兵、日本人の集団のなかでの日本人の善悪を含めた本質。、、、、、。
この名高い本を読みながら、途中何度も涙がでてきた。6歳と3歳と1ヶ月の3人の子どもを連れた逃避行の物語だ。以下、印象に残った記述から。
わたしの病気は子ども3人の死を意味する。子どもの肺炎。餓鬼。ジフテリア。ちくしょう! 貧富の階級。餓死。乳は出ない。いかなる残虐よりも食べられないことを自覚させるほど大きな罪はない。生きるための戦争だ。けっしてどろぼうはしていない。せっけぬり、温飯屋の女中。栄養失調。死ぬには変わりない、出発しよう。吐き気をもよおす貨車。左右に2人、背中に1人。しだいに男言葉になっていく。一歩あやまれば溺れて死ぬ。死んだ方が幸せ。下痢の連続。パンモグラ(ご飯を食べなさい)足の裏。這いながら病院へ。いざりのこじき女。個人主義と嫌悪感。飢え。きたない女。憎悪の目。幽霊の姿。もう死んでもいいんだ。もうこれ以上は生きられない。
新京の観象台に勤務する夫の藤原寛人は後の作家・新田次郎で、次男の正彦は後の数学者でエッセイストの藤原正彦である。この二人のベストセラー作家の2人の本は私もよく読んでいるから、どうしてもこの2人、特にきかん坊の正彦の行動に目がゆく。
引き揚げ者とその時代の日本人に大いなる共感を呼び起こしたこの物語は、1949年9月18日に映画となった。また 1982年5月10日 - 7月2日にTBS「花王 愛の劇場」枠の昼ドラマとしてドラマ化された。主役は島かおりが演じた。
「流れる星は生きている」は、金という人から教えてもらった歌の一番最後の言葉だ。「わたしの胸に生きている あなたのいった北の空 ごらんなさいね 今晩も 泣いて送ったあの空に 流れる星は生きている」。この悲しい歌を覚えてから日本へ帰りつくまで心の中でうたい続けた。
結婚した当時の夫は、流星はすがたはなくなるけれども、「流星のもっていたエネルギーは、なにかに変換されて生きている、そうでしょう」とやさしく語った。藤原ていはこのときから流星とエネルギー不滅の法則とを結びつけるようになった。それが生きるエネルギーとなったのであろう。
こういった個人的なエピソードをもとに、「流れる星は生きている」という題名をつけたことに深く納得する。このタイトルには万感の思いが込められているのだ。藤原ていは、2016年に98歳という長寿で没している。