「人生のなかだるみの第一波は40代後半、問題の第二波は50代半ばにくる」

必要があって、自分でつくった「名言集」から、あるテーマで抜き出してみた。

  •  亀倉雄策「人生のなかだるみの第一波は40代後半、問題の第二波は50代半ばにくる」
  • 伊谷純一郎「人は誰だって快楽を求める。しかし君、男子たるもの歓喜を求めにゃいかんよ」
  • 金大中「この世で一番恐ろしいのは自分の眼である。鏡の中に現れる自分の眼こそが一番恐ろしい」
  • 谷川健一「独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者です」
  • 高木東六「後悔していることがある。それは、この80年間、無精をして日記をつけなかったということだ」
  • 三鬼陽之介「人生は晩年の方が充実する。過去の失敗から知恵が、それまでの蓄積から先見力が生まれるからだ」
  • 中村元「老人が真っ先に立って、新しい学問を開拓する必要があると考える」
  • 島田正吾「100歳までは、新国劇の演目でひとり芝居をやる。内館さん、そこでだ。101歳のひとり芝居、新作を書いてくれないか」
  • 羽仁美央「画一的な人生のパターンに向けて、みんなが競争しているのは、異常だと思います」
  • 青島幸男「才能はみんな同じなのに、やらないだけですよ。気力の問題ですね。ボクは才能は傑出していないが、ウヌボレだけは人一倍です」
  • 小渕恵三「凡人が何かをしようとするときは、一つのことに徹しなくてはいけない」
  • 津本陽「年齢を数える前に、わが意欲を思え」
  • 文鮮明「幸福は、人のために生きる人生の中にあります」
  • 高山辰雄「何をするのでも、100年や200年じゃ達成できない。未完成というのも正しい在り方かな」
  • スティーブ・ジョブス「何か一つのことが上手くいったら、そこにいつまでも留まらずに、別の素晴らしいことをやるべきだ。次にするべきことを見つけろ」
  •  永田耕衣「大したことは、一身の晩年をいかに立体的に充実して生きつらぬくかということだけである。一切のムダは排除し、秀れた人物に接し、秀れた書を読み、秀れた芸術を教えられ、かつ発見してゆく以外、充実の道はない。
  • 石川達三「幸福は常に努力する生活の中にのみある」
  • 臼井吉見「教育の中軸は自己教育だと思いますが、その自己教育の中核は、自分と異質の人間との対話です」
  • 日野原重明「しかし、人間は生き方を変えることができる」
  • 斎藤茂吉「なにかを光らせるためには、光るまで磨くだけでいい」
  • 岡潔「人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのが不思議です」
  • 朝倉文夫「百扱ったならば、卒業と言いうか、入門というか、正しく一段階を得て、人生四十にして立った境地である。それからほんとうの途が発するのであるが、またそれで初めて一人前の域に入ったときでもあると思う」
  • 永井荷風「世間のつまらぬ不平や不愉快を忘れるには学問に遊ぶのが第一の方法である」
  • 犬養毅「順境とか逆境とか、貧富とかにいふことを苦にするとせぬとは、畢竟目的が定まって居るか居らないかにある」
  • 中野孝次「自分になりきるとは、自分だけの言葉を持つことだ。自分の言葉ばかりで物を言うようになったとき、人ははじめて真の自分を獲得し自分を全肯定できるのだ」
  • 新村出「大器晩成ならぬ小器中成」
  • 河井寛次郎「この世は自分を探しに来たところ、この世は自分を見に来たところ」
  • 中村天風「どういう風に毎日、一日の人生を生きることが、一番我意を得たものになるかという、その考え方が、人生観なんです」
  • 寺田寅彦「興味があるからやるというよりは、やるから興味ができる場合がどうも多いようである」

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「名言との対話」11月19日。吉井勇「「命短し恋せよ乙女 紅き唇あせぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを」

吉井 勇(よしい いさむ、1886年明治19年)10月8日 - 1960年昭和35年)11月19日)は、大正期昭和期著作家歌人脚本家である

東京生れ。維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に持つ。 華族伯爵)でもあった。早大政経科中退。中学卒業後の1905年新詩社に入り、『明星』に短歌を発表し注目された。1909年『スバル』創刊後は同人として活躍、戯曲にも手を染めた。1910年の第1歌集『酒ほがひ』は青春の情熱を奔放に歌いあげて高い世評を得て、1911年の戯曲集『午後三時』とあいまって耽美派作風を展開した。以降紅灯のの情趣を楽的に歌った1915年の『祇園歌集』、市井の寄席芸人の哀歓を写した1916年の戯曲集の『俳諧亭句楽』など、吉井勇調というべき独自の作品集を刊行し続けた。

 最初の結婚に失敗し、数年後に再婚。「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。

人物探訪をしながら、吉井勇という名はよく見かけてきた。

2005年7月に尾道を訪問した時、吉井勇の名をみた。志賀直哉記念館、林芙美子記念館を経て、暑い中、千光寺の階段を汗をかきながら登りきったところに吉井勇の碑があった。「千光寺の御堂へのぼる石段は わが旅よりも長かりしかな」。吉井勇が51歳のときに詠んだユーモアと実感のこもった歌であるが、50代の私も共感した。山の頂上付近に安藤忠夫設計の尾道市立美術館がある。ベルギーの作家の展示をやっていたが、展示室から見える瀬戸内海の風景は絶品だった。

 川口松太郎の小説『夜の蝶』、および同名の映画のモデルとなった上村秀のために、里見弴や吉井勇は短歌も何首か残している。

町田文学館で開催された「パンの会」に参加した野田卯太郎展では、与謝野鉄幹を中心に白秋、吉井勇、平野万里、木下杢太郎の5人が1907年に一ヶ月近い九州への旅行をしており、それがパンの会の誕生につながることを確認した。木下杢太郎を調べたときにも、新詩社の鉄幹、白秋、吉井勇、などと回った1907年の九州旅行の記述があった。

  世田谷文学館「六世 中村歌右衛門展」で吉井勇の筆跡をみたことがある。三島由紀夫の原稿が展示されており修正や追記が多かったが。吉井勇の原稿は殴り書きで読むのに苦労した。

京都祇園白川沿いに「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」という吉井勇の歌碑がある。谷崎潤一郎らが吉井の古希を祝って建てたものだ。それがきっかけとなって「かくかくに祭」が続いているというから訪ねてみたい。

「屏風には志功板画の諸天ゐて紙漉く家の炉火はなつかし」などの歌もいいが、代表作は 「命短し恋せよ乙女」で始まるゴンドラの唄だろう。吉井勇が作詞し、中山晋平作曲した名曲である。1915年の芸術座「その前夜(ツルゲーネフ)」の主題歌で、松井須磨子が歌ったのが始まりで、その後多くの人が歌っている。加藤登紀子倍賞千恵子美空ひばり森繁久彌藤圭子ちあきなおみが歌う唄をユーチューブで聴いてみた。無常感に彩られた、命のはかなさと素晴らしさを歌ったいい歌だ。他にも小林旭、田端義雄、舟木一夫らも歌っている。100年以上経った今も、歌われている。これからも歌われ続けるだろう。この代表作を通じて、吉井勇の名は永遠に朽ないことになった。