ZOOMミーティング4件。

姿池。

f:id:k-hisatune:20220802064336j:image

今日のZOOMミーティング

・近藤秘書とのミーティング1時間:「名言の暦」は今週完成。「全集」第6巻に着手。ブログ本「2021年」はその次に。

・デメケンミーティング30分

・力丸さんとのミーティング30分

・深呼吸学部事務局ミーティング30分:8月の修学旅行の日程確認。

ーーーー

ユーチューブ「遅咲き人伝」のブラッシュアップ。修正版が出来次第アップ。

メルマガの発行。

知研関係。

出版の予定を整理。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」8月1日。木下杢太郎「科学も芸術も其の結果は世界的のものであり、人道的なものである」

木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年明治18年)8月1日 - 1945年昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、詩人、戯曲、小説、翻訳随筆、評論、俳句、短歌、絵画をよくした医学者

木下杢太郎という名前は、文壇史の中にかすかに記憶がある。俳人で、医者という程度しか頭になかった。2010年に伊豆の伊東で木下杢太郎の記念館を訪問し、この人物の多才さに驚いた。
1913年に始めた呉服雑貨の店で、100年の歳月を紡いできたしっかりした建物である。裏には杢太郎が生まれた部屋が保存された170年前の建物の一部も付いている。「米惣」という家業は繁盛していたが、当時はこの伊東の地は、陸路、海路とも東京まで丸一日かかった。

木下杢太郎、本名・太田正雄は、8人兄弟の8番目の末っ子である。姉のきんとたけは東京に遊学し、きんは大隈重信邸に寄宿し、たけは萩の舎で樋口一葉と一緒に学んでいる。また、すぐ上の兄・円三は、後藤新平が総裁をつとめた帝都復興院の土木局長で、「隅田川を橋の博物館にする」という後藤の構想を実現した人物である。永代橋などの設計者である。後に事件に巻き込まれて自殺する。帝都復興の人柱になった人物である。またその上の兄・賢次郎は、政治の道に入り伊東市長として活躍している。

杢太郎は一高から東大医学部に進み、41才から東北大教授、52才から東大教授、そして60才で死去、という経歴も堂々たるものだが、彼には多くの分野への興味と、それぞれ一級のあふれる才能があり、そのことが逆に終生にわたって杢太郎の煩悶の種であった。

21歳の時の日記には「われかつて医師と画工との間にまよい、ついで医師と文学者との間に迷いき。而して昨夏来また画工と文学者との間に迷う」とあるように、どの分野にも一流の才能を持っていた。

家族の圧力で本業として渋々選んだ医学の道では、皮膚科の権威となり、水虫をもたらす白癬菌の発見者であり、太田ぼはんの発見者、そしてライ病の研究者でもあった。学問的研究者としては一流の業績を挙げている。真菌学の祖といわれている。

この杢太郎という筆名は、家族の監視から逃れるためにつけた名前であった。樹下に瞑想或は感嘆する農夫の子、という意味である。文才については、戯曲、小説、随筆、評論、翻訳と何でもござれだった。「日本遣欧使者日記」やルイスフロイスの「日本書簡」などの翻訳、美術を扱った「大同石仏寺」、そして歌集「食後の唄」など実に豊かな才能を感じる。同世代の斎藤茂吉は杢太郎と白秋に影響を受けたと語っている。「唐草表紙」には、漱石と鴎外の二人の巨匠の序文が載っている。鴎外は「官能的働きが極めて鋭く、且つ豊かで、、、作者は一段と高いところにある」といい、漱石は「豊かな情緒を濃やかにしかも霧か霞のように、ぼうと写し出す御手際です」と書いている。ブルーノ・タウト「は真面目ですぐれた理解力をもっており、日本で最も立派な人物の一人だ。親切で典雅でしかも多力である」と讃えている。

1907年の新詩社の鉄幹、白秋、吉井勇、などと回った九州旅行、高村光太郎などと開催したパンの会、ライバルで親友でもあった啄木との交流、漱石の教えを受け、そして鴎外を生涯の師として尊敬する。パンの会は、江戸情調的異国情調的憧憬の産物であつた。パンとはギリシャ神話の牧羊神、半獣半神。上半身が人間で、下半身が獣。木村荘八の絵が有名だ。杢太郎の「パンの会の回想」によれば、佐々木博士、吉井、北原、與謝野、伊藤、古泉、斎藤、平野、上田、藤島、鈴木氏、高村、石井、小山内、北原、長田、柳、吉井、猿之助、南、高村、永井、山崎、谷崎、武者小路、小宮、島村、柏亭、青山、一平、内田魯庵、など同時代の俊秀の名前がみえる。

画才を活かした装丁も得意で、白秋、谷崎、小宮豊隆斎藤茂吉などの本の装丁も頼まれている。「百花譜」として872枚にわたって医学用便せんに描き続けた花の絵も素晴らしい。子供の頃からの夢であった画家になっていたら名作を数多く残したであろう。

医者で文学者ということから、森鴎外に親しみを感じていた。杢太郎は鷗外の文業を「テーベス百門の大都」と形容した。ルクソール神殿や死者の谷があるエジプトの古都テーベのこと。森博士邸の観潮楼歌会にもパンの会のメンバーと参加している。

杢太郎は「科学も芸術も其の結果は世界的なものであり、人道的なものである」という。彼にとっては、熱中したすべて分野はつながっていて、世界を知り、世界を変える人道的な活動だったのだろう。この木下杢太郎という興味深い人物を観察すると、興味が広くかつそれに応えるように才能が溢れていると、迷いが多くなると同時にいずれにも没頭できずにいるという不幸も背負ってしまうと感じてしまう。全て一流であった。しかし歴史に名が残るのは一流の中の一流、つまり超一流の人の仕事である。多芸多才の人は歴史に名前が残りにくい。代表作というものの存在が大事なのだ。