「複製芸術家 小村 雪岱 装幀と挿絵に見る二つの精華」展(日比谷図書文化館)

 日比谷公園内にある日比谷図書文化館で、「複製芸術家 小村 雪岱 装幀と挿絵に見る二つの精華」展を見てきました。

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小村 雪岱(こむら せったい、明治20年1887年3月22日 - 昭和15年(1940年10月17日)は、大正から昭和初期の日本画家版画家挿絵画家装幀家

大正3年9月、小村雪岱は文豪・泉鏡花による書き下ろし小説単行本『日本橋』で、装幀家としてデビューします。鏡花の小説世界を愛した若き無名の日本画家は、その画号「雪岱」も鏡花によって授けられた。以後、装幀家としてばかりでなく、挿絵画家としても後に「雪岱調」と言われる独自の画風で邦枝完二の新聞連載小説「おせん」などを手がけ、雑誌や新聞などの印刷複製物で活躍する。さらには舞台装置家としての面も見せ、装幀、挿絵、舞台装置と三つの分野で才能をいかんなく発揮した。。

装幀家水上瀧太郎久保田万太郎、里見弴、昭和にはいってからは邦枝完二長谷川伸子母澤寛ら、大衆小説作家らの著書の装幀を多く手がけている。本が貴重であった時代があったことがわかるのは、現在の本との装幀の違いだ。デザインが実に凝っている。

挿絵画家:邦枝完二の新聞連載小説「おせん」や「お伝地獄」で確固たる地位を築く。挿絵は、白と黒の二色の表現による芸術であり、肉筆の本画とはことなるとする。髷物の挿絵を堪能することができたが、新聞や雑誌の連載小説における挿絵は現在のそれより大きく、地位も高かったようだ。小村の挿絵の女性たちや、侍同士の斬り合いなどは魅力がある。印象に残ったのは、大佛次郎「仮面の女」、小母沢寛「恩讐の牢」、里見弴「多情仏心」、川口松太郎「官員小僧」、長谷川伸「命の恋」など.雑誌では「キング」「サンデー毎日」「週刊朝日」「オール読物」などを舞台に「髷物」を描いている。

舞台装置家:守田勘彌忠直卿行状記」を嚆矢として、中村歌右衛門尾上菊五郎の舞台の装置を多く手がけた。

1917年から1923年まで資生堂意匠部に所属し、「花椿」というPR誌での商品広告などでも独特のスタイルをつくりあげた。虫よけのオドチンの広告などもみた。資生堂書体、雪岱文字として今も残っている。

九九九会という鏡花を中心とする会があった。会費が9円99銭だった。岡田三郎助、水上瀧太郎、里見弴、久保田万太郎鏑木清方らが参加している。里見弴「をんな」、久保田万太郎「路」「下町情話」「など彼らの著書の装幀を一手に引き受けていた。」

小村雪岱随筆集

 買った真田幸治編『小村雪岱随筆集』(幻戯書房)を読んだ。モデル、文学的挿絵、芝居の衣装、古寺巡り、仏像鑑賞、人物の思い出などが楽しめる。「女の顔」にも流行があると書いている。藤原時代は服装の色彩が豊富。鎌倉時代は好みが悪くなった。足利時代は渋好み。桃山時代は華美。徳川時代桃山時代には桃山時代の再現。派手な服装の流行する時は丸顔、渋好みの時代は面長が美人とされた。現代(小村の時代だから大正から昭和)は丸顔が美人とされて、服装もきらびやかになっているとしちる。

1972年生まれの 真田幸治という装幀家小村雪岱をテーマとした膨大な個人コレクションを持っており、この企画展も監修している。「日本古書通信」で連載を執筆中。

 この後、三井記念美術館でも、2月6日から『小村雪岱スタイルーー江戸の粋から東京モダンへ』展を開催する。小村雪岱は真田幸治のライフワークのようである。

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八木さんと電話で話す。

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「名言との対話」2月7日。貞永信義「月までの距離約38万キロが目標」

貞永 信義(さだなが のぶよし、1929年2月7日 - 2003年2月11日)は、日本の陸上競技選手、陸上指導者。

山口県生まれ。農家の息子で、父親からは「走っていたら、飯は食えんぞ。」と止められたが、仕事の後、毎晩5千~1万m走っていた。1950年「鐘紡」に入社。1957年に第6回別府大分毎日マラソンで優勝。1958年、アジア競技大会(東京)のマラソンで銅メダル。第12回朝日国際マラソンで初優勝。1960年ローマオリンピックのマラソン代表。1963年にカネボウ陸上競技部監督に就任。貞永は監督としても伊藤国光(鐘紡)等を育て、1968年のメキシコオリンピックでは陸上競技コーチを務める。生涯で75回フルマラソンに出場し、74回完走した。46歳まで現役を続けた。

郷里の偉人として、出身学校の「学校だより」や総合学習の教材にも登場している。

平成31年1月の防府市立右田中学校の「学校だより」。「第76回防府市内一周駅伝競、走大会兼第21回貞永杯中学校駅伝競走大会」が開催され、本校から男女それぞれ2チームが出場し、 男女合わせて9つの区間賞も獲得したことが報告され、オリンピックランナーだったはご存貞永信義を右田中出身と紹介している。

「やまぐち総合教育支援サイト」の生活科の項目にも貞永の名前がみえる。中学校3年生対象の 保健体育では、「郷土のオリンピック選手の速さを体験!!~貞永信義~~貞永さんの速さに挑戦するための方法を見つけよう」とある。~教 材:貞永信義ねらい:ロー マオリンピックマラソン競技日本代表選手である貞永信義の記録から、走る速 度を分析し、自分に合った距離や走り方、練習方法を考え、貞永信義の速さに挑戦する。中学 校学習指導要領解説:C陸上競技[第3学年 ]1技能(2) 長距 離走 に対応。授業では、貞永信義の記録を 1kmや200mトラック1周に換算し、授業で扱う1000m走や3000m走等の目標設定の参考とさ せたり、貞永信義の記録に挑戦させることでそ の記録の偉大さを実感させたりすることが考えられる。以上にみるように細かく指導されている。総合学習では郷里の偉人を調べさせるこのようなスタイルになっているのを知った。総合学習は導入後、随分と時間が経ったが、着実に進化している印象だ。

防府読売マラソン」は1970年から、貞永を顕彰する思いを込めて開催されている。貞永自身も第1回~第3回大会では10kmの部に出場して優勝しており、高校生と競り合う鉄人ぶりを発揮するとともに、大会振興にも尽力している。

門外漢の私も、貞永の名前と活躍は耳にしていた。興味深いのは、貞永が走り続けるモチベーションだ。生涯かけて月までの距離を完走しようとしていた。現役引退後も、月までの距離約38万キロを目標に走り続け、36万キロ近くを走破したが、及ばなかった。あと5%だった。74歳で逝去したのが惜しまれる。月までの距離とは新幹線(時速200km)で行くと約80日もかかってしまう距離である。貞永は76万キロ走った計算になる。著書『マラソン人生 果てしなく遠いゴールを目指して』(東洋図書出版。1977年)にあるように、果てしなく遠いゴールであった。今までマラソン選手も何人か扱ってきたが、これはマラソン選手らしいライフワークだと納得した。