「美しい本--湯川書房の書物と版画」展ーー湯川成一の限定本の世界を堪能。

神奈川近代美術館・鎌倉別館の「美しい本--湯川書房の書物と版画」展。

本の装幀や製本に意匠を凝らした限定本に生涯をかけた「湯川成一」の仕事に感銘を受けた。書物というものは本来、内容だけでなく、外観、手触りなども含めた総合芸であったことを思った。知識は宝石だったのだ。

湯川成一(1937–2008)は、証券会社勤務であったが、湯川書房を1969年に大阪市で設立、1998年からは京都市で事務所を構えている。
湯川書房は作品選定から装幀、造本に至るすべての工程を一人で担う限定本の出版を行う出版社である。装幀や製本に意匠を凝らし、ごく少数の部数しかつくらないのが限定本だ。多くの愛書家を魅了した。この限定本の蒐集家の岡田泰三が美術館の寄贈品が展示されているのを見ることができて幸運だった。一流の文学作品を気鋭の美術家の作品と結び合わせ、洒脱な装幀でつくりあげる「湯川本」が数多く展示されていた。「美しい本」の創造、書物のユ–トピア」をめざした湯川成一の仕事に感服した。

自らの審美眼で作家の才能を見出す人であった。そして俳句や書画、骨董にも造詣が深かった。加藤周一塚本邦雄辻邦生村上春樹永田耕衣大岡信白洲正子堀田善衛。、、こういう美意識の高い人たちが、湯川書房で見事な装幀の本を出していたことを知った。彼らが満足している顔が浮かぶ出来栄えだった。この湯川書房には文学者や美術家が集い、日夜文学談義が行われたという。2004年度造本装幀コンクール優秀賞受賞。

f:id:k-hisatune:20230211225911j:image

f:id:k-hisatune:20230211225914j:image

f:id:k-hisatune:20230211225916j:image

  • 限定本の蒐集家の岡田泰三も知った。日本テレビの人だが、「限定本」のコレクターという一面も持っている人のようだ。慶應義塾大学経済学部卒業。1987年日本テレビ放送網株式会社入社。社会情報局で『ズームイン!!朝!』等のディレクターで全国各地を取材・放送し報道局では警視庁担当の記者等を歴任。1995年に『鉄腕!DASH!!』を企画立案し、プロデューサーとして深夜枠から日曜19時枠に進出させる。その後、編成部を経て、夕方のニュース番組のプロデューサーや昼の情報ワイド番組のチーフプロデューサー等を担当する他、特別番組や新番組を立ち上げる。2015年、社長室広報部長兼CSR事務局長に就任。広報&メディア対応と同時に、『24時間テレビ』をはじめとするCSR活動を推進する。その後、株式会社CS日本において常務取締役編成局長として、CS放送全般、新規事業を担当。2021年6月から日テレ・ライフマーケティング株式会社代表取締役社長に就任。
  • 木口木版で「肖像画」シリーズを手がけている柄澤薺(1950年生)にも関心を持った。柄澤は湯川書房で多くの共作を残し、自らも出版工房を主宰している。柄澤齊による木口木版の世界、〈肖像画〉シリ–ズを堪能した。同年生まれにこういう人もいるのか。現代木口木版画の第一人者で、1993年、印刷と出版の工房「梓丁室」(していしつ)を開設、十九世紀の活版印刷アルビオンプレスを用いたオリジナル版画集、詩画集、挿絵本なとの制作と発行を始めている。

作家、画家、彫刻家など表現の分野は、最後は「人物」「肖像」行き着くのではないか。人物の風貌、面構え、そして逸話、エピソード、名言などに興味が湧く。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月11日。木下唯助「サーカスに国境も人種も関係ない」

木下唯助(1882年1月7日ー1962年2月11日)は、木下サーカスの創業者。

岡山出身の矢野唯助は、芝居小屋「旭座」を経営する興行師の木下藤十郎の養嗣子(家督相続人)となり木下唯助となる。1902年(明治35年)、20歳で清時代の中国大連で軽業)一座を組織した。これが木下サーカスの原点である。中国沿岸部やロシアを巡業するが、日露戦争の勃発で、岡山に拠点を移す。

丸太小屋での興行を行っていたが、テントの太陽工業が開発した、持ち運びが便利で設営に手間が少ない新製品を1954年に手に入れる。人類最初の構造物はテントではないか。軍隊の野営もテントだ。だから臨時政府は幕府という。テントに関する安全対策、不燃性、防火性、保険料率、などテントに関する学問をつくりながらテント業界を引っ張ってきたのが太陽工業の能村龍太郎だ。その能村のテントが木下サーカスを発展させることになった。ハワイやシンガポールなど海外公演も行うようになった。

山岡淳一郎『木下サーカス四代記 年間120万人を魅了する百年企業の光芒』(東洋経済新報社、2018刊)という本が出ている。

木下サーカスとは、どんな共同体なのか。百余年の風雪に耐え、現代人を惹きつける根源に何があるのか。木下家四代にわたる経営者の軌跡から、旅興行を実業に変えた執念と、波乱に富む人生が浮かび上がる。」

第2章で初代の木下唯助の事業の始まりを描いている。目次は次のとおり。

・「旭座」の主、藤十郎と出会う・西洋と日本をつなぐ曲馬・ダルニー(大連)で旗揚げ・西大寺の興行権を掌中にする・「仲裁」で名を上げる・弟の死、人生を決めた試練・中国、ロシア、大陸巡業の苦闘・「諜報」とロシア飛び・大阪・千日前の興行師、奥田弁次郎・映画館を建て、全国の興行師を束ねる・「任侠道」を利用した原敬内閣・昭和恐慌と「サーカスの時代」。唯助のサーカス事業の開始は、波乱万丈だったことがわかる。

では、サーカスとはいったい何か。「世界大百科事典」によれば、動物や人間で構成される見世物で、その基本はアクロバット、道化芸、調教動物芸で、綿密な計画が存在する。驚き、スリル、笑いがスピード感をもって披露され、観客は魅了される。

古代ローマの円形競技場での見世物がその起源であると言われる。1770年のイギリスの退役軍人アストリーのアストリー・ローヤル園芸劇場が近代サーカスの始まりである。

日本では大正末期から昭和にかけてが全盛期で30数団体があった。大サーカスは木下の他に有田、シバタがあった。木下サーカスの創業は1908年であるから、100年を越える「百年企業」で、その観客動員力は驚異である。

2代目の木下光三、3代目の木下光宣、そして4代目の木下唯志と、才能のある経営者がバトンをタッチしてきた。唯志は、「一場所、二根、三ネタ」をあげている。「場所」は公演地の選定、公演の現場を指す。「根」は営業の根気を、「ネタ」は演目である。この三つを地道に磨き、「サーカスに国境も人種も関係ない」との創業以来の哲学で世界トップ級のサーカスを率いている。

サーカスは常に時代と観客のニーズに敏感である。日本の伝統の曲芸の復元、ライオンと虎の交配のライガーのショー、ホワイトライオンのショー、象のショーなどの演目を開発している。

1975年に発効した「絶滅の恐れのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」であるワシントン条約への対処。野生動物の保護活動、環境保全活動にも力を入れている。1999年委はタイに「キノシタ・エレファント・ホスピタル」も開設し、象の治療にもあたっている。

2022年に創業120周年を迎える木下サーカスは、コロナ禍で苦戦が予想されたが、5カ月の営業停止はあっても、リストラをしないで、乗り切っているようだ。

「サーカスに国境も人種も関係ない」と似た言葉を探してみよう。小西和人「釣りに国境はない」。周富徳「食材に国境なし」。三船久蔵「柔らの道には国境(さかい)なく」。安藤百福「味に国境はない。人類は麺類だ」。そしてジョン・レノンの「イマジン」では「想像してごらん。国境なんてないんだ」。

私にも仙台公演は家族で楽しんだ記憶がある。人々に楽しみを提供するサーカスについて、特に木下サーカスについて知ったことによって、応援をしたくなった。今、立川で公演をやっているから見に行こうか。日本の近代サーカスの開拓者・木下唯助の志は、現代においても健在である。