「漱石山房の津田青楓」展ーー「装丁家で終わるつもりはない。画家で大成したい」

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漱石山房の津田青楓」展。生誕140周年。

1880年京都生まれ。13歳で丁稚奉公。15歳、奉公先を飛びだす。16歳、図案集『宮古錦』を刊行。19歳、高島屋に入店し染織図案描きを生業とするが、図案はほとんど独学であった。写生を重視した図案集『うづら衣』を刊行。1904年に子規の文学界の革新を模範とした雑誌『小美術』を刊行。「因循姑息なる今の図案界に斬新の趣味を鼓吹くせん」。ウィリアム・モリスのレッサー・アート(小芸術、小美術)の工芸思想の影響を受けている。純粋美術の大美術に対した。植物をテーマとしたモリス調だである。自身の写生から図案を描いたから創作性が強い。

20-26歳の間に2度、7年の軍隊生活。1907年に1日20人の知名人から署名を集め、農商務省海外実業練習生として私費留学の安井曾太郎を伴ってフランスに留学。パリでは荻原守衛らと交遊。日本への葉書には「相変わらず勉強はやっている。呑気でよい。貧棒でも画生は気楽だ」とある。パリから「ホトトギス」に寄稿した小説「掃除女」が小宮豊隆の目にとまる。「作者は詩人である。暖かいハートを持って、天地山川や生物に対してゐる人である。。、、凡てに情けを持って対してゐる人である」。1910年に帰国後、漱石と出会う。漱石はすぐに朝日新聞に紹介している。「三四郎」 それから 門」、「道草」、「明暗」、、。ほとんどが植物をモチーフとした作品である。

素材や技法にこだわり、新しい表現を試みる。漱石に油絵を教えるまでになった。33歳から、森田草平鈴木三重吉の装丁をし、ついに漱石の装丁を手がけるまでになる。

図案の流行や傾向を決める権利は図案家にはなく、消費者にあると読売新聞紙上で小宮豊隆を諭している。「職人主義の図案家を排す」では、図案家と消費者の関係を、小説家と読者のようにしたいと述べている。。

漱石十大弟子』。漱石の木曜会を与謝野蕪村の「蕪門十哲の絵」にならって描いた。青楓からみた弟子たちの人柄も記していて愉快だ。「世間学では小学生」の小宮豊隆、「温厚な紳士」の野上豊太郎、」「皮肉には漱石も一寸こまゐることがある」寺田寅彦、「正直に肚の底を言ふ」森田草平、、、。漱石は「お弟子たちがいまにどんな痛快な発言をするだろうと上機嫌でまちうけてゐられる」と書いている。

漱石は、青楓の手仕事の素朴な表現を気に入った。漱石の著書の装丁は、前半は橋口五葉、後半は津田青楓だ。漱石はよく書いた津田への手紙の中で「世の中にすてきな人は段々なくなります。さうして天と地と草と木が美しく見えてきます」と書いている。山房で漱石は「古来基督でも釈迦でも孔子先生でも皆弟子は在ったが友達はなかったよ」と語ったそうだ。これは面白い。

1916年に小石川の地震学者・大森房吉旧宅に引っ越し、竹を多く植えて「九竹草堂」と命名している。「九竹草堂絵日記」がある。漱石先生の客間や、友人たちとの絵画鑑賞や画作の様子が描かれている。「獺祭」を号とする。「装丁家で終わるつもりはない。画家で大成したい」と言っていた。

図案の見本帳である図案集は40冊以上ある。雑誌や新聞に掲載した芸術論や随筆は200点を超え、20冊以上の単著を刊行している「描く、書く」画家だった。『画家の生活日記』『青楓随筆』などがある。

「画家と職工」(現代の洋画)では、職工は単調であり、商人に汚されない美術家たちが心をそそいだ作品を制作することを提案している。また「立派、きれい、目をひく。金のかからないように。図案家の意味はこの二つの調整の塩梅にある」と難しさを語る。

妻は青楓が42-46歳の間、パリに留学した。帰国後46歳で離婚し、3か月後に再婚している。年譜をみていて驚いたのは、1933年、53歳のときに、「転向」で釈放されていることだ。それ以降は目だった仕事をしていない。その後、40数年の後に97歳で没した。その1978年は成田空港開業の年だ。青楓についての本格的な研究はまだないようだ。後半生はどんな生活をしていたのだろうか。1963年刊行の『老画家の一生』を読みたいものだ。

地下の図書館では「全集」が揃っている。『漱石全集』は28巻だ。「漱石文学全注釈」12巻。「漱石名作選集」5巻。「夏目漱石集」4巻。「漱石文学全集」10巻・別巻。因みに『子規全集』22巻・別巻3。芥川龍之介は24巻。寺田寅彦は30巻。鈴木三重吉6巻。

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「名言との対話」2月22日。木滑良久「鍛えられた研ぎすまされた直感が全て」

木滑 良久(きなめり よしひさ、1930年2月22日 - )は日本の編集者

 東京府出身。15歳で敗戦に遭遇。進駐軍を通じて米国文化に接し、強烈な憧れを抱く。1954年3月、立教大学文学部史学科卒業。

学生時代から出入りしていた平凡出版(現在のマガジンハウス)に1955年3月に入社し、1965年から1980年まで『週刊平凡』『平凡パンチ』『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』の各編集長を歴任。1980年、取締役に就任。1982年、『Olive』編集長を兼任。1984年、取締役編集担当副社長に就任。1988年には『Hanako』を創刊し、ブームを作る。同年12月、代表取締役社長に就任。1996年12月、代表取締役会長に就任。1998年12月から最高顧問。

新しいライフスタイルを生みだした雑誌dくりの名編集者だ。10歳ほど年下の石川次郎との共同作業で「BRUTUS」「Tarzan」「GULLIVER」などを次々に創刊していく。

 当時は講談社内田勝軍団とマガジンハウスの木滑軍団が有名だった。私はJALの雑誌担当の広報マンとして30代後半の2年間どっぷりと両社とつきあった。取材に必要な航空チケットを提供し、対価としてパブリシティをもらうという仕事だ。編集者とは企画の段階でよく打ち合わせをし、夜の食事会も多かった。木滑さんや内田さんは偉すぎたが、ターザンの石川次郎ホットドッグプレスの土屋編集長、その配下の編集者とは仕事をよくした。『BRUTUS』『ターザン』『ホットドッグプレス』などは、私の主な担当だった。

講談社の「一枚の絵は一万字にまさる」という内田さん。ホットドッグプレス、デイズジャパン、土屋編集長、三五館。マガジンハウスの木滑さん。ポパイ、ブルータス、ターザン、石川次郎さん、、、など、橘川幸夫さんの回想記を読むと、以上の人たちが登場する。わたしは同時期にこれらの雑誌に関与していた。しかし、担当はわずか2年であり、私の私的関心は「知的生産の技術」であったから、ベクトルは少し違っていたようで橘川さんとはすれ違っていた。

  『POPEYE』創刊40周年。「『POPEYE』を創った男たち、8人の証言」という映像をユーチューブでみた。 椎根和(編集者)「1976年。ナイキのスニーカーなど新しいライフスタイルををみせていく。過去はふり返らない」。石川次郎(編集者)「若者のライフスタイルマガジン。学生、アルバイトたちが参加し、タイトルやコピーをつくった」。都築響一(ライター)「編集会議がなかった。自分で面白いものをみつけて提案するというやり方・アイデアマンには有利」。新谷?(アートディレクター)「デザイン美学ではなく、その人をどう表現するかに腐心した。だからアイデアは枯渇しない」。松山猛(作詞家・ライター)「分業ではなく、取材、ビジュアル、原稿と一貫して任されるから、つくりたいものをつくれるから面白いが責任も重かった」。

初代編集長の木滑良久進駐軍の姿をみて戦争には絶対勝てないと思った。窓が開き、新しい音楽、映画などアメリカが見えてきた。ローラースケート、空気銃、自転車などで遊ぶ男の子の生活に関心を持った」。「ベトナム戦争が終わるころにはアメリカの健康的な生活スタイルが、日本に入ってくるだろうと石川次郎と話し合って、『POPEYE』を創刊した。3年もやっていると飽きてくる。飽きてちがうことをやっていく。また理論化しようとするとダメになる。統計は過去のものだ。未来はそういうものでは生まれない。雑誌作りは感性主体の作業だ」と良い雑誌作りを語っている。

雑誌の創刊者、初代編集長を続けたところにこの人の非凡さがあると思う。その秘訣は、「鍛えられた研ぎすまされた直感」であった。