ユーチューブで山田五郎「オトナの教養」が面白い。画家たちの人生の真実を知ることができる動画。しばらく堪能することになるでしょう。
・レンブラント「夜警」。火縄銃組合。42歳。バロック美術は対比(明暗)。集団肖像画。謎の少女は愛妻。画家の頂点。子どもが育たない。転落が始まる。乳母から訴訟。ローンで豪邸。オランダの衰退。貧民街へ。本当のアーチストへ。
・モネ「散歩、日傘をさす女」。1875年と11年後の3つの作品。妻カミーユ。幸せな時代。破産したパトロンの家族(アリスと6人の子ども)が一緒に住む。再婚。睡蓮を200以上描いていく。
・ダ・ヴィンチ「モナリザ」。普遍的人物像。67年の生涯で14、5点しか描かなかった。ラファエロ37歳で170点以上。80代のミケランジェロは無数。注文通りに描かない、納期を守らない画家。モナリザはずっと書き続けた作品。何度も何度も塗り重ねた。輪郭がなく結果的に不思議な表情。角度や光の加減で表情が違う。
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多摩センター。橘川さん、竹越さんと昼食。
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HPの改造計画を相談。ZOOMで岩澤さんと意見交換。
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「名言との対話」4月9日。久里洋二「ありがたいことに、「死」が、次々と先輩を消してくれます」
久里 洋二(くり ようじ、1928年4月9日 - )は、アニメーション作家、イラストレーター、絵本作家、洋画家。
福井県鯖江市生まれ。京都市美術学校に合格するも、軍人だった父が公職追放となり、進学を断念し様々な職業についた。横山泰三に触発され、雑誌に漫画を投稿するが全く採用されなかった。1950年に上京し、文化学院美術科、アテネフランセに入学する。二科展特選。文春漫画賞受賞。
後に、自身も参加した「若い日本の会」の結成がきっかけとなり、柳原良平(1931-2015)、真鍋博(1932-2000)とともに「アニメ三人の会」を主宰し、大人のためのナンセンスアニメーションを開拓した。漫画映画をアニーメーションという言葉に変えたのはこの3人だ。
テレビ「11P M」「ひょっこりひょうたん島」「みんなの歌」などで作品を発表した。代表作は「人間動物園」(武満徹が音楽)「二匹のサンマ」「殺人狂時代」「部屋」など。どれも海外での評価が高く、ベネチア国際映画祭では3回、アヌシー国際アニメーション映画祭など、世界中の映画祭でことごとく受賞している。
ニューヨーク近代美術館、パリ市立近代美術館、山梨県立美術館、池田20世紀美術館などで個展が開催された。また新潮社「トンボの本」のロゴマークをデザインしている。2011年、旭日小綬章受賞。福井県鯖江市に1800点の作品を展示する常設展示館「GALLE RY K」という専門画廊がある。また、鯖江の礎を築いた鯖江藩主間部(まなべ)に因んだ「まなべの館」という博物館には、鯖江出身の近松門左衛門、西山真一画伯とともに、「久里洋二の部屋」があり、独特のユーモアとペーソス、そしてあたたかみのあふれる作品が展示されている。
『ボクのつぶやき自伝@yojikuri』(新潮社)を読んだ。 twitterのつぶやきをもとにした独特のスタイルの本である。2010年4月から2011年10月までのtwitterから抜粋した言葉で構成されているユニークな本だ。最後は、東日本大震災、原発のことなども語っている。
「僕は独学です」「アイデアが一番大事です」。「アイデアが命です」。「アニメは音楽と同じく世界共通語です」。「アニメを見すぎると「アニメ評論家」になっちゃうぞ」。「未来を表現することが僕の生き方です」。
同じ1928年生まれの手塚治虫からは「僕は子供アニメを作ることにする。だけど、久里君は子供アニメは作らないでくれないか」、「僕は武蔵、久里君は小次郎だよ」と言われた。手塚は久里の才能を恐れたのだろう。その結果、久里洋二は「手塚君にアトムのアニメ化を勧めたことが失敗だった」と述懐している。勧めていなかったら、子どもアニメは久里の世界になったかもしれない。
ライバルの手塚治虫は1989年(平成元年)に60歳で亡くなっているのだが、それから30年以上の本日、久里洋二は93歳となった。2020年には、銀座のギャラリー、福井県立美術館、鯖江、そして2021年には小平市のブリジストンイノベーションギャラリーで企画展を開催している。昭和で終わった手塚と比べると、平成、令和、そして21世紀の20年以上を生き抜いて現役で活躍していることになる。ライバルとの関係で悔恨もあるようだが、「ありがたいことに、「死」が、次々と先輩を消してくれます」という言葉は、長く現役を張ってきた仕事師の本音だろう。