南大沢駅前での初の「古本まつり」をぶらつく。

 南大沢駅前で初の古本市。隆慶一郎時代小説の愉しみ」「小林秀雄全集第三巻(作家の顔)」「日本史有名人の臨終図鑑2」「日本の生死観大全書」を購入しました。

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図解塾の課外授業「続ける技術」の準備。テーマは「最初の一冊、最後の一冊」。

P社の原稿修正に本腰。

山田五郎の『オトナの教養』3本「鳥獣戯画」(なぞはまだ解けていない)「ゴッホ」(日本びいきの画家の困った性格)「ミュシャ」(日本とは相思相愛)を聴く。

根岸さんから様子を聞く。

朝はヨガを1時間。

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「名言との対話」4月10日。富永光行「商売は「機を見るに敏」なり」

富永 光行(1927年4月10日〜 )は、経営者。

岐阜市生まれ。1950年、名古屋で個人商店「靴のマルトミ」を創業する。合資会社を経て1973年に株式会社「靴のマルトミ」を設立。靴を中心に、玩具、アパレル、バッグなdのチェーン店を展開。店舗数日本一の小売業チェーンを築く。1990年には名古屋証券取引所に上場を果たす。

創業期は「ゲタから靴」へという流れの中で、既製皮靴でコストダウンをはかり成長する。1970年代を通じて主要幹線道路が相次いで整備されたことを受けて、1980年代から「靴のマルトミ」は郊外のロードサイドに「靴流通センター」の大量出店を敢行し、靴63%、玩具22%、アパレル、バッグ15%の売上構成で、「靴流通センター」や「靴のマルトミ」、玩具小売の「BANBAN」など10業態の販売チャンネルを持ち、ロードサイド店を中心に、1995年には1700を超える店舗を有していた。1987年に導入した独自の「オーナーシステム」を適用したOS店が原動力となり急成長を遂げ、ピーク時の1996年2月期には年売上高約1717億1400万円をあげるまでになった。

頂点であった1995年5月刊行の富永光行『商売は「機を見るに敏」なり』(ダイヤモンド社)を読んだ。一坪の靴屋から日本一のチェーンを築くまでの成功物語である。富永は「人間は下を向いて歩け。上を向いて歩くと躓くぞ」という天理教の教師であった父の教えをまもって商人道を邁進し、靴の色の流行で世界の景気の見通しが読めるまでになった。1995年と時には1800の店舗と1900名の社員を抱えていた。最後のページでは、10年以内に国内3000店舗を達成する。中国のほか、東南アジア、ロシアなど海外市場は限りなく広がっているとし、2005年から2015年にかけて大々的な多店舗化をスタートさせ、中国全土で靴だけでも2000店舗は楽につくれると豪語している。そして「そのとき、私は間違いなくこの世にはいないと思う」と述べている。

しかし、個人消費の低迷やディスカウントストアとの競争激化から収益性は低迷。長引く消費不振と不採算店舗の増加から99年同期の年売上高は約1380億3300万円に減少、約29億円の当期損失を計上した。2000年12月に(株)靴のマルトミ(茶谷正幸社長、従業員1343人)は名古屋地裁民事再生手続き開始を申請するにいたった。そういえばよく見かけた「靴流通センター」はいつの間にか見かけなくなった。現在はユニクロファーストリテイリング)の傘下に入っている。

しかし大型ショッピングセンターの進出という脅威があり、バブル崩壊後の1992年には、流通コンサルタント渥美俊一は「ロードサイドビジネスはまだ続く」と言い、経営コンサルタント船井幸雄は「将来性がないからいずれダメになる」と正反対の意見だったと回想している。富永は渥美の意見に賛成していたのだが、「ロードサイドビジネス衰退論」の船井のいうとおりになった。1995年刊行のこの本は意気軒高な創業者の最後の叫びであったことになる。富永光行にしてもどうも最後は「機を見るに敏」とはいかなかったようである。

ある事業を創業し華々しく成功し頂点を極めた直後に、世の中の急激な流れと自身が築いた組織の問題で衰退と没落の道をたどる、そして大企業や新勢力に城を明け渡すことになった創業者は実に多い。 事業を何世代にもわたって続けることは実に難しいことなのだと改めて感じることになった。