大学院「インサイトコミュニケーション」の最終回は、「私の仕事」の発表会。

夜は品川。大学院「インサイトコミュニケーション」の最終講義でした。

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 以下、受講生の総括。
  • 今日も、楽しく学ぶことができました。久恒先生、皆さん、ありがとうございました。昨日、先生の著書「図で考える人の図解表現の技術」を読みました。思っていた以上に、本の内容が良く解りました。改めて、講義で学んだことの多さを実感しました。春学期のまとめの時期になり、レポートの作成においては図を多用しています。図解することで内容が整理できますし、その前段階でよく考えるようになりました。文章と組み合わせることで、解りやすくなっていると感じています。また、講義の内容(自分はいったい何を学んだのか)を図1~2枚に整理してみました。結構大変で、キチンと考えないと一葉にはまとまりません。間違いなく考えるようになっています。こう思えるのも、図解を学んだからだと思います。講義を受講して良かった!折角出会った、図解表現の技術です。今後もあれこれ活用していきたいと思います。先生、皆さんありがとうございました。今後もよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、履修生の皆様、本日もありがとうございました。皆様の仕事図を拝見し仕事、業界について理解することができ、その人自身の魅力にも触れることが出来ました。実際に自分で手を動かし仕事図を作成することで、今やっていること、取り組みたい方向性を整理出来ることを学びました。久恒先生より「仕事図と人生鳥瞰図をしっかり描いていれば迷うことはなくなってくる」という言葉を聞き、その感覚が本日分かったような気が致しました。自分が今後どのような方向に進みたいのか、問題意識は何のか、壁に当たった時は、自身の仕事図、人生鳥瞰図に立ち返り考え直すことも手段の1つだと感じました。また「深堀すると成長する」という言葉についても非常に前向きな気持ちになり、今後図解も含め、しっかり今進めていることをしっかり深堀していくことを忘れずに取り組んでいきたいと思いました。久恒先生、履修生の皆様から多くの学びを得られたことについて感謝申し上げます。今後とも宜しくお願い致します。
  • 本日、最終講義【私の仕事図】。皆さんの仕事、これまでやってきたこと、これからやりたいことを聞かせていただきました。8回の講義を通して、私自身も含め、皆さんの図解が個性を出しながらも、考えを共有できる1枚の図解が出来上がっていくことに毎回楽しみを感じていました。最後に、「人間は仕事のなかで成長する」「今やっていることを深堀りすることで方向性が見えてくる」という先生の言葉が印象的でした。「私の仕事図」を図解することで、人生の目標やこれまで自分がやってきたこと、強みや弱みを整理することができました。これからも授業、仕事、そして修士論文の作成において、図解を使うことで状況の整理と見えていなかった気づきを発見できるのではなか、さらには図解を共有することで、自分の考えや仕事における課題を双方が誤解することなく理解できるのではないかと考えております。引き続き図解を日常に取り入れます。久恒先生、皆さん、ありがとうございました。
  • 最終講義ありがとうございました。皆さんの図解が進化しているとあらためて思いました。白黒以外の色が加わることで、訴えかける情報量が増えると感じました。大いに参考にさせていただき、今後チャレンジしてみたいと思います。 全く知らない分野の人とのコミュニケーションが図解を通して生まれることを体感しました。「コミュニケーション」の概念、定義が私の中で広がりました。「私の仕事図」では、自分の働く会社がどういう会社であるか、会社の中で自分の仕事がどういう位置付けにあるか、会社をどうしていきたいか、自分はどうありたいか、多くの情報を皆さん上手く盛り込まれていて、仕事、プライベートに真摯に向き合う姿勢に刺激を受けました。「図解」を通して様々な教養を身につけることができた4ヶ月間となりました。感謝申し上げます。
  • 久恒 啓一先生 7/30学び&感想。先生のおっしゃるように、皆さんの「私の仕事図」は皆さん個々の自分を中心とした説明でありながら、世の中の動きが垣間見れるという点で図解の表現の幅の広さに改めて感銘を受けました。これからも図解の思考と技術を高めていきます!今日で授業は最終講ですが、先生はじめ皆さんとの繋がりを大事にできればと思いますので、今後ともよろしくお願いします。【学び】・図にすることで抽象化されるので、そこに具体性(数値など)を持たせると現実味が増す・仕事図は「私」を中心に配置した方がわかりやすい(Sさん、アドバイスありがとうございました!)・言葉(販促、営業、コールセンター)の捕捉説明を加えることでよりイメージが沸く(先生、コメントありがとうございました!)・どうして糖尿病なのかということがよりわかるように数値的な説明などでその重要性を表現すると背景もわかる(Mさん、ご質問ありがとうございました!)以上、最終レポートで学びを仕事図に盛り込めるように頑張ります。4か月間、あっという間でした。ありがとうございました。
  • 先生、皆様、今日もありがとうございました!皆様の図解に、以前やった仕事、今の仕事、将来やることがとても明確です。また仕事に関する情報も細かくてわかりやすいと思います。医療、旅行、商売などの仕事に関する図解を通じて、日本企業、日本文化に深く理解するいいチャンスだと思います。大変勉強になりました。「私の仕事図」で皆さんが色々不足を教えてくれてありがとうございました。直してみます。先生の授業を通じて今まで、色々気持ちがありました。図解を描けなくて苦しんだり、どんどんできるようになって嬉しかったり、「正解はない」と言う言葉に感動したりした。面白い授業でした、図解と哲学があった授業は楽しかった。図解を引き続き書きます。ありがとうございました。これからもよろしくお願い申し上げます。
  • 久恒先生、皆様、本日もありがとうございました。「私の仕事図」を拝見することで、仕事の内容だけでなく、背景や思いや志ま1枚の図で見ることができることが深くてとても面白かったでした。また毎回思うことですが、それぞれの図解に個性があり、描き方がそれぞれ全然違うので、色んな手法があることもあらためて学ばせていただきました。何か考えに迷ったときや、節目のとき、考えを整理したいときなど、あらゆる局面で、「人生鳥瞰図」と「私の仕事図」を見直したり、書き直したりする事で、自分の考えがまとまり、方向性が確認できるのだと感じました。授業の最初の頃に、大学院での学びは図解を学ぶだけでもいいくらいですよと先生が仰っていたのが印象的でしたが、図解を学んだことで、自分の考えを整理するあらたな手段を手に入れた感覚です。これからも図解を使って理解を深めていきたいと思います。皆さま引き続きよろしくお願いします。

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    午後
    ・目黒で橘川さんと相談
    ・品川で税理士事務所の菊池さん、工藤さんと面談
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    「名言との対話」7月30日。立原道造風信子(ヒアシンス)」
    立原 道造(たちはら みちぞう、1914年(大正3年)7月30日 - 1939年(昭和14年)3月29日)は、詩人、建築家。

    東京日本橋生まれ。父の死により5歳で家督を相続。7歳、子供向け科学雑誌を愛読。13さい、パステル画を始める。14歳、短歌に関心。15歳、神経衰弱。北原白秋を訪問。天体観測に熱中。16歳、校長留任運動のリーダー。金田久子への愛をテーマとした自選詩集『推奨簾』を書く。17歳、府立三中を四年修了し一高理科甲類に入学。短歌雑誌「詩歌」に投稿を開始。堀辰雄の面識を得る。18歳、一高文芸部委員。三好達治を愛読。19歳、堀辰雄を訪ねる。20歳、東京帝大工学部建築学科に入学。丹下健三の一つ上。軽井沢で室生犀星を知る。21歳、小住宅の設計で建築界の奨励賞である辰野賞を受賞。新鋭の詩人として注目される。22歳、2回目の辰野賞。23歳、3回目の辰野賞。卒業後、石本建築事務所に就職。信州追分の定宿の油屋の火事で九死に一生を得る。24歳、水戸部アサイと交際。第1回中原中也賞を受賞。24歳8か月で急逝。

    命日の3月29日は「風信子(ヒアシンス)忌」である。ヒアシンスはギリシャ神話の美少年ヒアシンサスの額を割った血から生まれた花だ。道造自身も白皙の美青年だった。恋人だった水戸部アサ子によれば、道造は計画魔であり、便箋と封筒は新橋のいとう屋でなければ承知しないというように、こだわりの強い人だったそうだ。

    立原道造堀辰雄を兄とし、師とした。その堀辰雄の師は、芥川龍之介である。師にも師がいる。兄貴分の堀辰雄立原道造をモデルとした青年を登場させた小説『菜穂子』を執筆している。
    1997年、文京区弥生に立原道造記念館が設立されたが、2011年2月20日に閉館。2012年2月、信濃デッサン館(現・KAITA EPITAPH 残照館)内に「立原道造記念展示室」が新設されたが、後に閉館している。
    立原が構想した図面に基づき、2004年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市の別所沼公園に竣工した。ここを拠点に今でも「ヒアシンスの会」がある。この地は昭和初期に「鎌倉文士に浦和画家」といわれた芸術家の村だった。道造は五坪ほどの小住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼んでいた。
    同級生への手紙には「、、浦和に行つて沼のほとりに、ちひさい部屋をつくる夢、長崎に行つて 古びて荒れた異人館にくらす夢、みんな二十五六歳を晩年に考へてゐる かなしいかげりのなかで花ひらくのだ」。「五十坪のなかへ 四坪半の小家?を建ててもまだ広すぎる位です」と語っている。

    草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」では、ヒヤシンスハウスとおぼしきイメージが語られている。「僕は、窓がひとつ欲しい。あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……」
    立原道造は、1937年冬から翌年春にかけて、当時、葦がおい繁り静寂をきわめた別所沼の畔に、自らのために小さな週末住宅を建てようとしていた。「芸術家コロニイ」を構想し、自ら住む週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだ。

     角川春樹立原道造詩集』(ハルキ文庫)を読んだ。やさしい語り口の詩で青春のただ中にある青年を感動させるだろう。林、鳥、小鳥、雲、小川、風、微風、夢、麦藁帽子、花などがでてくる。

    2005年に本郷の竹久夢二美術館と立原道造記念館を駆け足で訪問したことがある。今度は、夭折の詩人、立原道造の夢の住宅「風信子(ヒアシンス)ハウス」を見に行きたい。