「梅棹文明学」の全体像を「図解」(知的生産の技術)で学ぶーー半年かかって「文明の情報学」が終了。

「図解塾」第5期の最終回。2022年4月から半年かけて「梅棹忠夫著作集」第14巻「情報と文明」の図読プロジェクトが完了しました。これで、梅棹文明学の両輪の一つである「文明の情報史観」の図が49枚できあがりました。

第5期以降は、「梅棹文明学」の全体像を「図解」(知的生産の技術)で学ぶことをテーマとしています。10月からの第6期は、著作集第5巻「比較文明学研究」を題材に「文明の生態史観」を学びます。5期は私がつくった手描きの図解を、塾生にパワポイント化し説明してもらい、私がより深い解説をするというやり方でした。第6期はパワーポイント化した図解を見せながら、私が解説し、みなで議論するというやり方で進めたいと考えています。

 


以下、塾生たちの「半年の学び」「来期への期待」。

  • 4月から始まった図解塾の第5期が今回で終了しました。久恒先生、みなさま、どうもありがとうございました。久恒先生が手書きで要約図解された「梅棹忠夫著作集」を塾生がPPT化し、完成後に出版することを目標にしたプロジェクト。今期は、全22巻のうちの第14巻「情報と文明」にかかる要約図解49枚のPPT化を行いました。作成していく過程は楽しく、作り終えたあとの説明をするときは梅棹先生の発想の豊かさや、現在の日本の状況と一致していることの多さに驚きながら、学ばせていただきました。第6期は、「文明の生態史観」の要約図解を使って久恒先生が解説してくださるとのこと。一人では到底読めない著作集。図解の助けを借りて梅棹先生の壮大なお考えに少しでも触れて、ワクワクしながら学んでいきたいです。よろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾お疲れさまでした。今年の4月から続けてきた梅棹忠夫先生の文明の情報史観「情報と文明」。49枚の手書き図解を分担してひとつずつパワポにし、久恒先生の解説を交えて読み解いていくというものでしたが、ついに本日をもって完了し感無量です。今日の情報社会の進展とその本質を図解で分かりやすく理解することができたのは、とても大きな収穫でした。そして、パワポ化する過程で、図解に関する様々な技術や効能についても学ぶことができたことも収穫です。例えば今日は、 「多読より図読」「ひとつの世界観を図で蓄積。それが情報社会を生きる知恵となる」  漢詩と図解は似ている」「レ点や返り点をつけながら漢詩を読むように、図と図の関係性を意識して読み下す」「リアリティーを出すには具体例を」といった話はとても印象に残りました。10月からは「情報」に続き、「文明の生態史観」を図で学ぶというもの。こちらも梅棹先生の壮大な思考に触れられる貴重な機会で、とても楽しみです。またYAMI大学の各講座との交流も始まるとのことで、新しい広がりが増えていきそうで楽しみにしています。引き続きよろしくお願い致します。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。第5期図解塾はいよいよ本日が大詰め。梅棹忠夫全集第14巻『情報と文明』において久恒先生が書き起こされた図解案スケッチ全49点の最終の3テーマについて塾生夫々がパワポに起こしプレゼンを行いました。4月6日付けの今季第1回講義のメモを紐解きますと、「①箇条書き②脈絡ないテーマ、という読み手にとって難攻不落の『知の巨城』で知られ、全巻読破・マスターした猛者はほんの一握り」とあり、着手前のワクワク感が思い出されます。当方は今季、怒涛の如く押し寄せたモーレツな社業立ち向かう為、当塾は長らくのお休みを余儀なくせざるを得ませんでしたが、今回ついに最終3ピースのうちの1つを担う事が出来ホッと致しました。手書きの素材を文字起こしするという一見単純作業ですが、仕上げた図を使って手際よく、順序だててプレゼンする為には、スケッチに記されたコトバひとつひとつの意味を確認したり、レイアウトの意図を考える事が必要でした。久恒先生からは「図は漢文のようなもの」一見単語の羅列に見える図に「レ点」をつける要領で読み込みを行う事により「相手に伝わる説明」ができる。「精読⇒図読」という、今迄の作図の概念から1歩先へ進み「図でコミュニケーションする」というプロセスの醍醐味を体感できたことが本日の学びとなりました。一方今後の展開として、橘川先生率いるヤミ大深呼吸学部との交換授業が今後実施されるとの事、あらたな顔ぶれとの交流により今後さらに視野を広がる事に期待ひとしおで、衰え知らずな久恒先生の野望に今後もヒーヒーと何とか精いっぱいついて行きたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。有難うございました。
  • 第5期最後の講義ありがとうございました。情報と文明49枚の久恒先生のまとめられた図解をパワポ化し、みなさんの発表からの先生の解説で、分厚い本の情報に触れることができました。復習もかねて、パワポの図解をもとに自分なりに接続詞を入れ、流れをつけて、説明できるか、見直してみたいと思いました。寺島先生の番組「世界を知る力」で歴史を知ることは今の世界と日本を語るには必要なことだと知りましたが、最後に先生が話された、「現在は歴史と地理の交点に立っている」という言葉もつながり、納得いたしました。歴史と地理についてさらに深堀できそうな、6期からの文明の生態史観について楽しみにしております。どうぞよろしくお願いいたします。
  • 今日もありがとうございました。「情報の文明学」最終回でした。手書きの図をパワーポイントにして、解説を聴くという形でした。ともすると内容を理解しないまま機械的パワポにしていたところもあり、今日もボロが出てしまい反省しています。この一連の「情報の文明学」を通して最も感じたのは、梅棹先生の未来予測のすごさで、現代の課題にそのまま適用できるものが多いというところです。教育についても然りだと感じました。再度復習してみて、今教育界で話題になっていることの中で当てはまるところを考えたいと思います。来月、「知研フォーラム」というグループの中で高校教育についての話をしようと思っていますが、多少なりとも情報産業社会と結び付けていけたらと思っています。深呼吸学部との相互乗り入れはたいへんありがたいです。イベントが一挙に増えて、体がいくつあっても足りなくなりそうですが、できるだけ参加してみたいと思います。さっそく「キツ」への参加登録をしました。「文明の生態史観」は、もともと生態学に興味があったし、自然環境と思想・文明・宗教との関係もたいへん興味があります。例に出されたプロテスタント浄土真宗の類似性など本当に面白いですね。楽しみにしております。
  • 久恒先生、今回、図解塾に初めて参加させていただき、ありがとうございました。私は、図解や梅棹先生のお考えやお話しに、最近、興味や関心を持ち始めたので、ぜひ聴講したいという思いがあり、参加させていただき感謝しております。初めて耳にする言葉やわからないことが多かったのですが、久恒先生や受講生のメンバーの方による図解の説明は、とても興味深い内容ばかりで、歴史や地理など世界についてとても理解が深まりました。久恒先生やメンバーの方による説明は、初めて参加する私にも、とてもわかりやすかったです。図解の説明だけでなく、具体的な例をあげての説明で、わかりやすく、新しい様々な発見があり、大変参考になりました。 また情報の歴史や近代化と工業化、価値の変換など歴史の流や分岐点を把握することができ、これからの世の中の方向性が、なんとなくみえてくる気がしました。10月からの梅棹先生が考えられた「文明の生態史観」を学んでいきたいと思っておりますので今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月21日。菱田春草「第三の自己考案に縦横の筆を揮うことができ、ここに初めていわゆる自己の画なるものを生じ得べきなのだ」

菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年明治7年)9月21日[1] - 1911年明治44年9月16日[1])は、明治期日本画家横山大観下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。

長野県飯田市出身。岡倉天心率いる東京美術学校では1期生の横山大観、2期生の下村観山の後輩の3期生として一緒に学ぶ。21歳で卒業する。
1898年、天心の校長辞任に伴い、美校の教師であった大観、観山、春草は、日本美術院の創設に参加した。
1903年に大観とインドにわたる。1904年、天心、大観とアメリカにわらい、ヨーロッパを経て帰国。1906年日本美術院茨城県五浦への移転で、大観、観山らと制作に励むが、眼病に冒される。1911年、36歳で死去。代表作には近代日本画の最高峰の『落葉』がある。春草はかたちではなく、樹林の命を描き出した。この作品で春草は「今光琳」の評価を得ている。
児島孝『近代日本画、産声のときーー天心、大観、春草の挑戦』を読んだ。
横山大観は「春草にして今まで在世してあらんには、僕の絵もモット進んだであろう」と嘆いている」。岡倉天心は「自ら在来の格を破って他を指導する僅少」の人とし、美術界に最も必要なる人物と惜しんでいる。
2006年に五浦(いずら)を訪問した。彼らは木村武山を含め、道場のような生活を送った。この4人が断崖絶壁の上に建った研究所で修行僧のような生活をしている写真が残っている。この地が日本美術再興の地となったのである。
2008年には、東京駅「大丸」で開催されていた「近代日本画 美の系譜 横山大観から高山辰雄まで」という企画展を観る。主となってゐる長野県の水野美術館の水野コレクションは信州飯田出身の菱田春草の作品蒐集に力を入れており32点と全国一のコレクションである。近代日本画をテーマとした水野美術館の所蔵画400点の中から60点を選んで展示する企画展である。水野正幸氏は、ホクト株式会社会長の実業家で、「日本画の醸し出す奥深い世界に魅かれ、仕事の合間にあちこちの美術館を巡り歩くうちに、この素晴らしさを多くの方々と共有できないものだろうかと考えるようになりました」と美術館創立の事情を語っていた。
春草は金のために、身を屈することをしなかった。製作はするが製造はしなかった。またいわゆるなぐり物もなかった。
「第三の自己考案に縦横の筆を揮うことができ、ここに初めていわゆる自己の画なるものを生じ得べきなのだ」と「古画の研究」で語っている。第一は古画の研究、第二は写実の研究、そういった研鑽と準備ののちに、第三が完成すると考えていた。下村観山について春草は「全然独創的に新領域を開拓する人ではないやうである。前人の既に着手した跡を訪ねて、それに自家の意趣を加えて画を作る人である」と観察している。春草は第三にこだわった画家であった。しかし、この天才には完成までの時間は与えられなかった。横山大観が90歳の長寿であっのとは対照的である。こういう人天才に「夭折」という言葉がふわさわしい。
 
参考
児島孝『近代日本画、産声のときーー天心、大観、春草の挑戦』