「小早川秋聲ーー旅する画家の鎮魂歌」展ーー代表作は「国の盾」

東京ステーションギャラリーの「小早川秋聲ーー旅する画家の鎮魂歌」展。

小早川 秋聲(こばやかわ しゅうせい、秋声とも、1885年明治18年)9月26日 - 1974年昭和49年)2月6日)は、大正から昭和中期にかけて活動した日本画家文展帝展を中心として活躍した。旅する画家。従軍画家。エッセイスト。

鳥取県にある光徳寺の長男として生まれた秋聲は、9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入る。

その後、京都で谷口香嶠、山元春挙といった日本画家に絵を学び、文展、帝展を中心に活躍。

日本国内を旅して風景画を描き、東洋美術研究のため何度も中国に渡り、また欧州を旅して西洋美術を学ぶなど、旅する画家であった。

戦争の影が濃くなると、従軍画家として海外の戦地に派遣され、戦意高揚のための絵を描くことを期待される。東本願寺の慰問使としての役割もあった。また対日世論を和らげるためにアメリカにも派遣されている。

満州、中国各地、を中心に、ビルマシンガポールなどを歴訪している。

戦争の色彩はと問われ「灰暗色とセピア色が戦争の中から滲むで来るやうな気がする。、、、然し白や桃色や紫には決して映らない」と答えている。「戦争は国家として止むに止まれぬ事とは申せ、惨の惨たるもの之あり候」。

傷ついた友を背に歩く兵士を描いた「戦友」、戦死した兵士を葬る様子を描いた「護国の英霊」、鋭い眼で自らの刀を見つめる姿を描いた「日本刀」、出征した兵士の妻が武運長久を祈る「祈願」、急な出陣を命ぜられた隊長が静かに一服の茶を点てる「出陣の前」などの絵をみた。

「虫の音」は、戦地で兵士たちが思い思いの姿で寝込んでいる様子が描かれている。戦争画ではあるが、人間味をおびており、印象深い。

しかし何といっても代表作は「國之楯」だ。暗い背景に陸軍将校の遺体が横たわっている。頭部をおおう布には寄せ書きの書かれた日章旗がかぶせられている。闇に浮ぶ死体である。最初にこの絵をみた陸軍の軍人たちは、思わず帽子を脱いで敬礼をしたという。

英霊の礼賛という見方と、戦争による死を描いたという逆の解釈ができる問題作だ。この絵は陸軍に受け取りを拒否され、長く秘匿されていたが、戦後、改作され公開されている。

会場でこの絵をみたときは、やはり私も衝撃を受けた。

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戦後は戦犯指定も覚悟していた。体調を崩し画壇からは遠ざかった。随筆家としても過ごし、自筆文献だけでも400件に及んでいる。僧籍を持つようなった複雑な生い立ち、旅行家として世界各地を踏破した広い見聞、軍人画家としての活動などからみえる世相を文筆で描いた。享年88。

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・雑誌の取材のために、女性の人物記念館リストの作成と資料をそろえる。

・2人のインタビュー原稿を書く。最初の5人分の原案がようやくできた段階。まだまだ紆余曲折がある。

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「名言との対話」10月22日。朱鎔基「どんなことでもむやみに追従せずに自分で思考すること、信念を貫き、何ものも恐れない精神を持つこと」

朱鎔基(しゅ ようき、簡体字:朱镕基、繁体字:朱鎔基、英語:Zhu Rongji、ヂュー・ロンチー、1928年10月1日 - )は、中華人民共和国の政治家。第5代国務院総理。

1951年清華大学電機工学部卒業。東北人民政府工業部に勤務、1957年からの反右派闘争で批判され、1978年名誉回復。国家経済委員会局長、清華大学教授などをへて、1987年共産党中央委員候補。

1988年上海市長、1989年同市党委員会書記を兼任し、浦東新区の経済開発を指導。1991年副首相に昇格、国営企業の連鎖債務問題を扱い、のち中国人民銀行総裁を兼務。1998年首相となり、江沢民政権を支えた。2003年の全人代温家宝に首相の座を譲る。

朱建栄『朱鎔基の中国改革』(PHP新書)を読んだ。

この書は1998年に刊行されているから、首相としての活躍については、21世紀の中国の命運を握るのは「赤い経済皇帝=朱鎔基首相」だと期待を述べるにとどまっている。

精華大学電機学部電機製造専攻を卒業。200を超えるIQと人一倍の努力の人。「独立思考」の精神。他人のメンツをつぶしても真実を守るストロングマンの性格。

火事撲滅大隊長、難問を解く名手、マクロコントロールの大師、中国のゴルバチョフなど、仕事師ぶりをあらわす言葉は多い。
最高権力者の鄧小平は、政治と軍は江沢民(虎:寅年)、経済は朱鎔基(龍:辰年)が最終的な責任を持つという後継体制をつくった。中国では龍と虎が力を合わせればパワーが格段に増強すると言われている。実際にそのとおりになった。

朱鎔基は副首相以来、トップの座を狙う野心がないことをはっきりと表明している。朱鎔基待望論の高まりを退け、指導部内部での権力闘争の芽を事前に摘み取るという戦略をとった。実際、首相の座で5年間全力投球して引退しているのは、見事な出処進退だ。

就任時に掲げた「三大改革」である行政改革、国有企業改革、金融改革を3年で実行するという目標を断行している。1998年には中央政府の省庁数が40から29に減らされ、職員も半分の約1万7千人に削減。2000年初頭からは、地方政府ごとに改革案が発表され
実行に移された。国有企業改革では、1997年末に赤字に陥っていた6,599社の大中規模国有企業のうち、4,799社(73%)が赤字を脱却し、利益総額は97年の2.8倍に伸びている。

朱鎔基は1994年2月に副首相として来日している。そして2000年10月にも来日している。テレビ番組出演と、それを受けた形の日本記者クラブの共同会見を行った。2年前の江主席訪日後に日本国内に広がった「嫌中感」を和らげたいとの狙いがあった。私も大学生との対話をみたのだが、テレビで当意即妙の受け答えをし、ユーモアあふれる言葉を使い、中国に対する印象をやわらげた功績は大きいものがあった。日中関係については「歴史を鑑とし未来に向かうという原則を守り、子々孫々仲良くしていくことが、我々の願いだ」と強調した。

「たとえ私の前に地雷原があろうと、万丈の深淵があろうと、私は後ろを省みず、勇敢に前進し、死をも厭わず、全力を尽くす決意だ」という言葉どおり、21世紀の中国の強大化への道筋を描き、実行した手腕は大したものだ。

1998年時点で、2000年の次期党大会で中央政治局常務委員7人のなかで、引退しなくてすむメンバーは胡錦涛一人。政治局委員には温家宝がいた。中国共産党の幹部はほとんどが理工系出身の学歴を持ち、地方での実績を積み重ねており豊かな実務経験がある。その中から権力闘争を経て鍛えられた指導者が選ばれていくのだから、リーダー選びにおいて間違いは少ないように感じる。そのことは現在の中国の姿をみればわかる。

朱鎔基の信念は「どんなことでもむやみに追従せずに自分で思考すること、信念を貫き、何ものも恐れない精神を持つこと」だった。「自力思考と勇気勇敢」というキーワードをあげておこう。

 

朱建栄『朱鎔基の中国改革』(PHP選書)