古田隆彦先生「人口波動学」の2回目ーー「なぜ人口は波を打つのか」。

古田隆彦先生「人口波動学」の2回目ーー「なぜ人口は波を打つのか」。

マルサス+5つの新発想。

1:人口容量:扶養量と許容量。動物は受動態。人間は能動態。人間は文明によって扶養量(食糧、、)を増やし、許容量をあげてきた。

2:人口抑制装置:石器時代の子殺し、堕胎、老人殺し。近代の出生率の抑制、性交渉の制限、避妊。日本でも所得水準による規制、初婚年齢規制、間引き、堕胎。速水融「都市のアリ地獄化による死亡」。

3:修正ロジスティック曲線:人口増減の方程式。出生の変化と死亡の変化により人口は波をうつ。

4:容量更新:人間は文明によって環境を改善して容量を更新してきた。

5:多段階人口波動曲線:石器前波・後波。農業前波(粗放)・後波(集約)。工業前波(粗放)。世界(100億人)も日本(1.28憶人)集約工業の後波がきて人口容量が増えるのではないか。

コンデンシング社会。一人で二人分。新しいライフスタイル。マルチハビテーション。AIという妖精。遊び。反抗とコンドーム。ロボット。宇宙(極大)と素粒子(極小)と複雑性(生命。コンピュータでそのまま操作)。日本人はマルチアイデンティティ(多重人格)。分人。工業後波期か情報産業時代か。、、、

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ヨガ。人口波動学。歯の点検。散髪。深呼吸学部。

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今日の名言。日経新聞2022年1月13日。文化欄「交遊抄」

福永哲也(日本花き卸売市場協会会長)「本は枯れないのでゆっくりと学んでいきたい」

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「今日のヒント。渡辺淳一『幸せ上手』(講談社文庫)

知識に体験を重ねて知恵になる。、、知恵が豊かな人ほど、幸せを掴むチャンス多いのです。、、知恵をたっぷり貯えて、幸せづかみの旅に出ようではありませんか。」

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「名言との対話」1月15日。堺利彦「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」

堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(明治3年11月25日) -1933年1月23日( 昭和8年)は、社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。

福岡県行橋市(豊津)出身。一高中退。「万朝報」記者などを経て、1901年ころから社会主義運動に参加。1903年幸徳秋水平民社を創設、週刊「平民新聞」を発刊して日露非戦論を展開。幸徳とともに「共産党宣言」を初めて訳す。1906年日本社会党を結成。大逆事件時には入獄中で難をのがれ、出獄後は売文社を経営し社会主義者の孤塁を守った。1920年日本社会主義同盟を組織。1922年日本共産党の創立に参加、委員長となる。第1次共産党事件後解党論を唱え、社会民主主義に転じた。のち無産大衆党日本大衆党全国労農大衆党などに属し、終始反戦活動を展開しつづけた。(出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア)。

『パンとペン 社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』(黒岩比佐子)を読んだ。「平民社」といいう組織の名はよく聞くが、「売文社」とはいかなるものなのか。その疑問からこの本は出発している。

堺利彦は、才能のあった小説家の道を歩むのではなく、ペンの力で世の中を変えることを選び、社会改良家としての道を歩んだ。その間、獄に入ったが「世と別れて独り読書と思考に耽る」として驚くべき分量を読んでいる。獄舎は理想郷だったのだ。同志の大杉栄も「一犯一語」と称して監獄生活を楽しんでいる。

幸徳秋水と始めた平民社が頓挫したのち、堺は「売文社」を結成する。社会主義者の青年たちの暴発を抑え、仕事を与え、収容所の役割を果たしたのだ。尾崎士郎もここで仕事をしている。また荒畑寒村は生涯でただ一人だけ先生と呼んだのは堺だけだった。

自虐的な名称の「売文社」は、文筆何でもござれ引請所だった。400字1枚で50銭、現在の3000円から5000円とリーゾナブルは価格と質の高い仕事で、1910年から1919年まで8年3カ月存続している。ペンを以てパンを求める、パンを求めざるペンがある。「食パンに万年筆を突きさした画」が旗印だった。

文章の代作、添削。原稿製作。英訳。雅号考案。商標考案。広告。自伝代筆。生徒総代答辞。手切れ金請求の手紙。嘆願書。感謝状。代議士の演説草稿、帝大生の卒論の下書き。足袋屋の広告文、自殺者の遺言、、、、。思想信条に関わりなく、世の中のあらゆる文章のニーズに応じた会社である。現在の広告代理店、編集プロダクション、翻訳会社の機能を全部もっていた。

世界各国の旅行案内『世界通』は日本における旅行案内のさきがけとなった。『内外文豪美辞麗句叢書』全20巻は、本文100数十ページの安価な小冊子で世に受け入れれた。文豪ごとにまとめられており、編者のはしがき、作家の小伝、著作目録などもついている。分類は、たとえば徳富蘆花の場合は、「景」「人」「心」「世」「恋」「雑」となっている。

「売文」は、高度な知的労働であり、インテリの多い社会主義者たちを養うすぐれた事業であり、天才的な発想だった。売文社が消滅した1919年は労働運動復興期の1年目であった。その後の大正期の社会運動の中心は、堺利彦、山川均、荒畑寒村ら旧売文社のメンバーが担った。こういうことからも、売文社の人材の豊富さがうかがい知れる。

堺利彦は、漱石門下の小宮豊隆も在籍した豊津中学を首席で出ている。「日本社会主義運動の父」である堺は最晩年には行橋市堺利彦農民労働学校を開設している。堺利彦資料館があるという情報を得て、私は郷里の豊津の近くの中津に帰った折に訪ねようとしたが、すでに閉鎖されていた。言文一致を標榜していた堺は中津出身の福沢諭吉を敬仰していた。また15歳年下の中津出身の怪人・野依秀市に書かせた新渡戸稲造を攻撃する「青年の敵」の跋文を書いている。豊津には堺利彦顕彰碑がある。

堺利彦の生涯、とくに「売文社」の時代の姿をみると、「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」という堺の信条どおりの行動をしていたと感じる。単なる理論家ではなく、資本主義社会の中での生き残りのための知恵も豊富で、なおかつ涙もろいユーモリストであった堺利彦の生涯も見事なものだと感心した。

この本の著者の黒岩比佐子(1958年生)は、この書籍の執筆がが5分の4まで進んだときに、すい臓がんを宣告され、抗ガン治療をしながらなんとか完成させ、2010年10月7に刊行している。その翌月の11月17日に52歳で永眠している。ノンフィクション作家として、サントリー学芸賞角川財団学芸賞などを受賞した人だったが、この取材力と筆力は惜しいと思った。この気迫あふれる本は、読売文学賞を受賞している。傑作である。