友人の句集からー「打ち初めや第一着を天元に」「炊きたての新米の香の如き句を」

昨日で今年の仕事は終わった感がある。

『戒語川柳1』も到着した。『図解コミュニケーション全集』第6巻も数冊手に入れた。

今日は、書斎のかたずけをやり、机の上の資料を整理した。

2022年の計画の総括もだいたい終わったので、年末年始に2023年の計画をたてることにする。

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合間に、JAL時代の同期生の生田康夫君の句集『鍵穴の緑』に親しんだ。

いい句というより、好きな句をあげる。

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打ち初めや第一着を天元

炎とは霊の形やどんど焼

梅一枝切らば世界の瓦解せん

点けて切り切っては点ける春炬燵

縄文の児らも摘みけんつくしんぼ

母馬の目に今仔馬立ち上がる

筍をズバリと妻の気合ひかな

網棚に一人旅する夏帽子

新句集さくらんぼうの生る頃に

広重の絵のある町の驟雨かな

消しゴムで消し得ぬものも青林檎

七夕や短冊に書かざりしこと

電光と雷鳴との間ほどの生

流れ星賢治どこかにゐるやうな

炊きたての新米の香の如き句を

天使にはあらず小悪魔七五三

詰め合って巡査加はる落葉焚

鍵束の廊下に響く寒さかな

外套は重し父には父の闇

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「名言との対話」12月29日。北村透谷「恋愛は人世の秘鑰なり。恋愛ありて後人世あり

北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日明治元年11月16日〉- 1894年明治27年〉5月16日)は、日本評論家詩人

神奈川県小田原市出身。1883年に東京専門学校(早稲田大学)政治科に入学。1887年にキリスト教の洗礼を受ける。1888年自由民権運動家・石坂昌孝の長女ミナと結婚。1891年、新渡戸稲造坪内逍遥と出会う。

1892年『女学雑誌』に「厭世詩家と女性」を発表。日本平和会の機関誌『平和』の創刊編集者・主義津となる。この時、4つ年下の島崎藤村と知り合い、影響を与えた。

1893年、『文学界』に「人生に相渉るとは何の謂いぞ」を発表。山路愛山徳富蘇峰との論争になる。日清戦争前夜の時勢の中で精神に変調をきたす。評論『エマルソンを脱稿』後、自殺未遂。1894年、自宅の庭で自殺。享年25。

島崎藤村『北村透谷の短き一生』では、不羈磊落さは父から、神経質と功名心は母から受け継いだとみている。そしてあるテーマを定めると、何度も考え抜いて、作物の味が深くなっていくという感じがすると言っている。そして死ぬ3、4年あたりから急に光ってきたという。テーマを才能のままに移っていくというタイプではなく、あたためながらじっくりと育てていき、それをまとめるというやり方であろう。

『北村透谷詩集』を読むと、まるで藤村の詩集を読んでいるような気がする。「地龍子」は、「行脚の草鞋紐ゆるみぬ。胸にまつはる悲しの恋も 思ひ疲るるままに衰へぬ。と見れば思ひまうけぬところに 目新しき花の園。、、、」。透谷は藤村を育てたのだ。

『厭世詩家と女性』を読む。「恋愛は人世の秘鑰なり」から始まる。恋愛がなければ人生には色や味はない。詩人という怪物は多くは恋愛で罪業をこしらえる人だらけだ。しかし、恋愛経験を通したのちに、人生の奥義を入っていく。恋愛は各人の胸に一生消えることのない印を残すと書き、思想と恋愛、想世界と実世界などを論じる。恋愛は「己れ」を写し出す鏡という。

『北村透谷集』は、没後に島崎藤村が編んだものだ。「もろもろの学芸は実にライフを解釈するが為に成立す」。「われは花なき邦に生まれて富める人にならんよりも、花ある邦に生まれて貧しき世を送らん事を楽しむ」

この本のなかで、福沢諭吉中村正直(敬宇)の比較を論じていたのに興味を持った。『西洋事情』で一世を風靡した福沢は平穏なる大改革家である。しかしこれは外形の改革である。福沢は旧世界を嫌い、新世界に身を捧げた。一方、内面を扱う思想界では、中村正直がいる。彼は適用家、保守家である。儒教的思想をもってスマイルズ『自助論』から選び取った書を書いた。中村は旧世界と新世界の調和を保っていた、との評価をしている。透谷は「福沢翁と敬宇先生とは新旧二大潮流の尤も視易き標本なり」と結論している。

福沢は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」から始まる『学問のすすめ』など、人間の内面をみがくことについても論陣をはり、前代未聞の大ベストセラーになっている。私は今、たまたまこの書を読み込んでいるところだ。この書は福沢が故郷の中津に市学校を開くにあたり、旧友に示した小冊子を、5年にわたり書き継いだものだ。明治人の人心を啓発した名著であり、「西洋事情」が外形なら、こちらは、内面の生き方をの啓蒙書である。透谷は「吾人は極めて疎略なる評論を以て此二偉人を去らんとす」と最後に書いているが、そのきらいがあるようだ。私は透谷のこの分析には賛成はできない。

この人の後世に与えた影響力と存在の大きさと、わずか25年の生涯との対比には驚くほかはない。

 

参考

島崎藤村『北村透谷の短き一生』『厭世詩家と女性』『北村透谷集』