横浜の「港の見える丘公園」とその付近を訪問。
1912年生まれ。批評家、小説家、随筆家、翻訳家。
健一は学者になるか文士になるか迷った末に、文士になった。
海外生活が長く、日本語は外国語として学んだから、37歳でようやく最初の本を出している。エッセイストとして名高かったので名前はしっていた。
『わが人生処方』、『父のこと』、『交遊録』を購入した。同時代の人たちとの交遊、吉田ワンマンの素顔、人生論を楽しみたい。
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「文士は必ずカメラを持て」が持論だった大佛次郎は、旅や日常でカメラを持ち歩いたカメラ愛好家だった。写す側と写される側の両面からみた大仏次郎展。この記念館はなんどか訪れている。鎌倉の自宅のベッドのある書斎、書棚、応接ソファなどを再見。
大仏次郎邸には常時数匹のねこがいて、生涯で500匹のねことの暮らした愛猫家だ。
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吉田直の作品は「寄木造り」によって制作された木彫人物像。「寄木造り」とは、頭体部をふたつ以上の材木を寄せ合わせ、一像に仕上げる技法のことで、平安時代に完成されたとされる日本彫刻の伝統技法。
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ブリキのおもちゃ博物館。
コレクターが生業。自分の好きなことをビジネスとして成り立たせた起業家。ミュージアムビジネス。
20212年に河口湖北原ミュージアムを訪問した。神奈川近代文学館で企画展をみるたびに、さがしたが見つからなかった。今回ようやく「ブリキのおもちゃ館」を発見した。館内とショップを見学していたら、北原さん本人がいたので、写真を撮ってもらった。人物記念館を旅していると、こういうことがある。『北原照久の世界』(本多徹著・北原照久監修)を購入。
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「名言との対話」4月10日。板谷波山「土をいじり、窯を燃やしていたい。これが私の至願だ」
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。
茨城県生まれ。東京美術学校彫刻科で岡倉天心校長と、高村光雲から木彫り技術を学ぶ。1903年、田端で築窯。陶芸家としては遅い24歳からの出発だった。対象を常に立体としてとらえる。
1911年、「ほ光彩磁」が完成。1929年、工芸初の帝国美術院会員。還暦を過ぎて帝室技芸員。1953年、81歳で陶芸家初の文化勲章。60年間の精力的な活動であった。
半世紀にわたって助手をつとめた轆轤師・現田市松の亡くなると、精神的打撃を受けて病をえて、91歳で永眠する。
波山の作品は、初期のアール・ヌーヴォーでは、繊細、大胆、美しいという評価である。到達したのは「ほ光彩磁」だ。器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をつや消しの不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。そこはかとない余情、薄絹をかぶせたようだ。
近代陶芸の祖・板谷波山は、自分は職人ではなく、「工芸」の分野に「個人作家」の創作という意識を持ち込んだ陶芸作家だ、アーチストだという意識が強かった。1960年には「人間国宝」を辞退している。自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負があったことが証明している。
「私は何から何まで自分自身でやらないと気が済まないのだ」という完璧主義者であった。『炎芸術』’No115。特集板谷波山)の作品の写真を眺めると、さもあらんと納得する。
「土をいじり、窯を燃やしていたい。これが私の至願だ」の前には、「私は他の世の中のことは何も考えないで」がつく。願いというレベルではない。「至願」という初めて聞く言葉に、確固たる決意が込められていると感銘を受けた。