世田谷文学館の「ヨシタケシンスケ かもしれない」展ーー「次に絵本作家がしなきゃならないことは、老人向けに絵本をつくることなのかもしれない」

 

世田谷文学館のヨシタケシンスケ かもしれない」展。

人気のある絵本作家らしいが私は知らなかった。会場は絵本やイラスト好きの女性が多くにぎわっていた。

1973年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科総合造コース卒業。

絵本作家になるまでの展示があった。また、一枚のヨシタケケンスケのイラストが面白い。

  • ヨチヨチ時代「こわいものばっかりかもしれない」
  • 小学校時代「大人になったら大工さんとかいいかもしれあい」
  • 中・高生時代「将来、犯罪者になるかもしれない」
  • 大学時代「でも、楽しいのは今だけかもしれない」
  • サラリーマン時代「社会人はむりかもしれない」(半年)
  • 美術屋さん・イラストレーター時代「この仕事、向いているかもしれない」(昼は美術屋、夜はイラストレータ。14年間)
  • 絵本作家時代「「できないこと」は役に立つかもしれない」(絵本作家ん・イラストレーター)
  • そして、今「そもそも、ものは言いようかもしれない」

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2013年『りんごかもしれない』で産経児童文学出版文化賞美術賞以降、7度にわたりMOE絵本屋さん大賞を受賞。2019年にはニューヨーク・タイムス最優秀絵本賞を受賞。

ヨシタケシンスケ『ものは言いよう』(MOE編集部編)を購入した

「ものは言いよう」はヨシタケの座右の銘だった。夢は、現状維持。

「りんごかもしれない」がデビュー作、かつ代表作。自分が好きな要素を全部入れた。反対側はみかん?宇宙から落ちきた?心があるのか?無限に広がる妄想と哲学。

クセ、ウソ、ふまん、真似、つまんない。おしっこちょっぴりもれたろう違い、口癖、アンガー、、、

編集者「りんごをいろいろな視点から見てみたら、というお題に答えてください」から始まった絵本作家が誕生した。

この本でヨシタケケンスケは、やわらかく語っているが、大事なことを言っている。以下、「語録」からピックアップ。

  • 絵本は「読むのは子どもだけれど買うのは大人という構造的なズレがある」「大人が読んでも面白いと言っていただけることがあるのかな、、」
  • 「独立できた。ただ、自分が全部決められる自由とひきかえに、全部自分で背負わなきゃいけなくなったというか」
  • 「絵本のように自分でやりたいことがかなりの確率でやらせてもらえる仕事を、より丁寧にちゃんとやらなきゃな、という思いにもなるんですけど、、」
  • 「自分がやてきたことをちゃんと裏切りつつ、裏切らない部分も残しつつ、自分を更新し続ける、どこまでならぶれていいか、みたいな話ですよね」
  • 「ほどほどのものができちゃうのが、一番怖い、、」
  • 「僕は絵本をつくって届ける後方支援で、直接のやりとりは無いけれども、時代や場所を越えて変わらぬものを、役に立つものをつくりたいという思いもある、、」
  • 「よい出会いを引き寄せるためには、準備ができてなければいけない、、用意ができた人にそういう出会いが巡ってくるはずだ、、」
  • 「次に絵本作家がしなきゃならないことは、老人向けに絵本をつくることなのかもしれない、、」
  • 絵本「具体性」「キーワード」「ディテール」「翻訳し直すこと」。本望「この人、弱い人なんだだろうなあというのが伝わる」
  • 「今後も絵本の世界に少しでも長くいたいので、なるべく目立ちすぎないようにしたいですね」

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町田で兄弟会。5人が集合。6月の一周忌の日程が決まる。日曜日に法要。土曜と日曜に家族の会食。月曜日に友人、弟子たちとの会食。その後は、島根の津和野へ。

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「名言との対話」5月5日。中島敦人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い」

中島 敦(なかじま あつし、1909年明治42年〉5月5日 - 1942年昭和17年〉12月4日)は、日本小説家

東京帝大をでて横浜の女学校の教員を8年間している。大学院にも籍を置いた。テーマは森鴎外だった。その後、転地療養も兼ねて南洋庁に勤務することになり、第一次世界大戦でドイツから奪ったマリアナ、カロリン、マーシャルの委任統治を統括する南洋庁パラオに赴任する。国語編集書記として日本語教科書の改訂・編集が担務だった。そこで小説家デビューとなるが、8ヶ月で逝去。わずか33年の生涯だった。

1949年から2006年までの国語教科書に登場する文豪のリストでは、「こころ」の漱石、「羅生門」の芥川、「舞姫」の鴎外、「城の崎にて」の志賀の次に、「山月記」の中島敦が並んでいる。この作家は生存中はほとんど知られなかった。海外での翻訳も多く、また演劇、漫画、映画にもなっている。純粋に作品だけで後世にも生き残っている稀有な作家である。

中島敦が生まれた1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。

同年生まれには太宰治や松本清張がいる。中島や太宰治は大昔のような気がするが、松本清張は最近の人という印象がある。中島敦33歳、太宰は38歳で亡くなっている。清張は83歳。太宰治は全集は2、30巻、松本清張は60館あるが、中島は3巻しかない。

同年生まれの作家をあげると、大岡昇平、中里恒子、埴輪雄高がいる。彼らと同年生まれという感じはしない。それは中島敦が夭折だったからだ。作品数は20数編、著書は2冊。中島敦は、1909年生まれで。2019年は生誕110年である。没後77年。この年は司馬遷の没後2100年にあたるの

神奈川近代文学館で「中島敦展ーー魅せられた旅人の短い生涯」。

池澤夏樹の解説が出色だ。

「奥行の知れない深い構成と細部に至る完成度」「グローバルでもなくユニバーサルでもなく、ワールド。それも歴史を含む地理」「膨大な教養」「漢文の素養に英語を重ねて育ち」「中国古代以来の歴史と現代世界の隅々に及ぶ地理を自分の掌中に収めた」「古来、文学は先行する作品を足場として書かれてきた。伝統を受け継いで、そこを起点にどれほど遠くまで行けるかが才能の力だ」「彼が南洋に向けて船出した港は眼の下にある。そこまで含めて今回の展示と思っていただきたい」

「才能は自前、しかしその先の幸運と不運は天の配剤である」「生前にはほとんど知られることなく、没後に広く読まれるようになったという珍しいタイプの文学者である。作品の力だけで多くの読者を獲得し、その勢いは歳月を重ねるごとにいよいよ増している」

以下、中島の作品から。

名人伝「古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?ああ、弓という名も、その使い道も!」

李陵「見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として恐れた。今でも己の過去を決して非なりと思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやてのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、何としても李陵にはこたえた」

司馬遷は稿を起こしてから14年、腐刑の禍に遭ってから8年、それに増補、推敲を加えて数年。史記130巻、52万6500字が完成している。

中島敦は「日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである」と語っている。この言葉を読んで、特権を使わねばならないと改めて思った。

「俺といふ個人性を希薄に行って、しまひには、俺という個人がなくなって、人間一般に帰してしまひさうだ。冗談じゃない。もっと我執を持て! 我欲を!」(カメレオン日記)と叫んでいるが、中島敦にはに短い生涯しか与えれなかった。

「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦をいとう怠惰とが俺のすべてだったのだ」。これは『山月記』の中の文章だったか、中島本人の述懐だったか。いずれにしても、「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い」は、まことの名言というか、人生100年時代に向けた優れた警句である。