本日の「河北新報」に『野田一夫の大いなる晩年』発刊の記事が掲載された。

本日(2024年12月4日)の河北新報に『野田一夫の大いなる晩年』の記事が掲載された。

私の以下のコメントが紹介された。「編集に当たった宮城大学久恒啓一名誉教授(ライフデザイン論)は、『野田先生は他分野の幅広い年代の人たちに影響を与え続けた。野田先生の言葉を後世に伝えたい』と話した。」

この本の「はじめに」は、私が書いている。

多くの人に読んで欲しい。

はじめに

野田一夫先生は、2022年9月3日に旅立たれました。享年は95でした。

野田先生は接した人たちに与える影響力の大きな人でした。影響力の大きな人を「偉い人」と呼びたいと思います。野田先生は周りに深く影響を与え、社会に広く影響を与え、そして長く影響を与え続けた「偉い人」でありました。

野田先生は、「ラポール」というハガキ通信を毎週1000人にのぼる友人・知人に配り続けていました。多摩大の創設前から始まったこのハガキ通信の内容は、多摩大学学長時代、宮城大学学長時代、いくつかの著書にまとめられています。

私たち仙台の野田一夫ファンクラブは、野田先生のこの影響を「永く」与え続けるための一つの試みとして、75歳から90歳までの「ラポール」を題材に、『野田一夫の大いなる晩年』という書物を編むこととしました。

それは2003年から2017年までの期間にあたります。「9・11」直後の21世紀初頭から、イラク戦争、2011年の「3・11」の東日本大震災、そして、2020年から始まる世界を覆ったコロナ禍の前までの期間になります。

国内では、総理大臣は、小泉純一郎安倍晋三福田康夫麻生太郎鳩山由紀夫菅直人野田佳彦安倍晋三の各氏の時代でした。

毎週届くこの「ラポール」を読みながら、野田先生のアクティブな日常が手に取るようにわかりましたが、今「ラポール」を改めて読むと、交流のあった各界の著名人や将来性のある若い友人などの人たち、海外や講演で訪れた国内各地の旅の様子、話題になっている本、そして日本の行く末についての感慨などが縦横に書かれており、見事な同時代史となっています。

この膨大な記録を年齢順に並べ直してみました。75歳の正月から始まり、喜寿、米寿を経て、90歳の卒寿で1000人が集まった品川グランドホテルでの大パーティで終わっています。「気」の人であった野田先生のアクティブな姿を目にする人は「人生100年時代」の晩年の生き方のモデルとして、大いに励まされることでしょう。

『野田一夫の大いなる晩年』を1周忌にあたる2023年9月3日に上梓できたことを嬉しく思います。「深く、広く、長く」影響を与えた野田先生の影響力を、さらに「永く」保ち続けることができれば嬉しい限りです。

         野田一夫ファンクラブ    久恒啓一

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立川のオステ終了後、昭和記念公園を妻と散策。広大な公園を徒歩と自転車で周遊。途中で見かけた彫刻たち。1万4千歩。

後姿探検隊。

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「名言との対話」12月4日。中島敦人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い」

中島 敦(なかじま あつし、1909年明治42年〉5月5日 - 1942年昭和17年〉12月4日)は、日本小説家

東京新宿出身。東京帝大を卒業後、横浜の女学校の教員を8年間している。大学院にも籍を置いた。テーマは森鴎外だった。その後、転地療養も兼ねて南洋庁に勤務することになり、第一次世界大戦でドイツから奪ったマリアナ、カロリン、マーシャルの委任統治を統括する南洋庁パラオに赴任する。国語編集書記として日本語教科書の改訂・編集が担務だった。そこで小説家デビューとなるが、その後8ヶ月で逝去。わずか33年の生涯だった。

1949年から2006年までの国語教科書に登場する文豪のリストでは、『こころ』の漱石、『羅生門』の芥川、『舞姫』の鴎外、『城の崎にて』の志賀の次に、『山月記』中島敦が並んでいる。この作家は生存中はほとんど知られなかった。海外で多く翻訳されている。また演劇、漫画、映画にもなっている。純粋に作品だけで後世にも生き残っている稀有な作家である。

中島敦が生まれた1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。

同年生まれには太宰治や松本清張がいる。中島や太宰治は大昔のような気がするが、松本清張は最近の人という印象がある。中島敦33歳、太宰は38歳で亡くなっている。清張は83歳。太宰治は全集は2、30巻、松本清張は60巻あるが、中島はたった3巻しかない。

同年生まれの作家をあげると、大岡昇平、中里恒子、埴輪雄高がいる。彼らと同年生まれという感じはしない。それは中島敦が夭折だったからだ。作品数は20数編、著書は2冊。中島敦は、

神奈川近代文学館で「中島敦展ーー魅せられた旅人の短い生涯」をみた。2019年は生誕110年で、没後77年。

池澤夏樹の解説が出色だった。

「奥行の知れない深い構成と細部に至る完成度」「グローバルでもなくユニバーサルでもなく、ワールド。それも歴史を含む地理」「膨大な教養」「漢文の素養に英語を重ねて育ち」「中国古代以来の歴史と現代世界の隅々に及ぶ地理を自分の掌中に収めた」「古来、文学は先行する作品を足場として書かれてきた。伝統を受け継いで、そこを起点にどれほど遠くまで行けるかが才能の力だ」「彼が南洋に向けて船出した港は眼の下にある。そこまで含めて今回の展示と思っていただきたい」

「才能は自前、しかしその先の幸運と不運は天の配剤である」「生前にはほとんど知られることなく、没後に広く読まれるようになったという珍しいタイプの文学者である。作品の力だけで多くの読者を獲得し、その勢いは歳月を重ねるごとにいよいよ増している」

以下、中島の作品から。

『名人伝』:「古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?ああ、弓という名も、その使い道も!」

『李陵』:「見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として恐れた。今でも己の過去を決して非なりと思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやてのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、何としても李陵にはこたえた」 

中島敦は「日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである」と語っている。この言葉を読んで、特権を使わねばならないと改めて思った。

「俺といふ個人性を希薄に行って、しまひには、俺という個人がなくなって、人間一般に帰してしまひさうだ。冗談じゃない。もっと我執を持て! 我欲を!」(カメレオン日記)と叫んでいるが、中島敦にはに短い生涯しか与えれなかった。

「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦をいとう怠惰とが俺のすべてだったのだ」。これは『山月記』の中の文章だったか、中島本人の述懐だったか。いずれにしても、「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い」は、まことの名言というか、人生100年時代に向けた優れた警句であると理解したい。