「菊池寛デー」となった日ーー江藤淳、松本清張、鹿島茂

思いがけず、菊池寛デーとなった。散歩中に江藤淳の講演をオーディブルで聴いて、その後に松本清張の講演を聴く。書店で文藝春秋4月号を買い、鹿島茂の連載「菊池寛アンド・カンパニー」を読んだ。

江藤淳菊池寛芥川賞」(1987年10月31日。菊池寛生誕100年記念講演)。本人の肉声でキレのいい内容を聴くのは至福の時間。菊池寛を小林秀は生涯尊敬していた。親友・芥川龍之介とは文学の関係に限っていた。35歳で亡くなった直木三十五の賞金を創ろうと考えていたが、芥川も35歳で自殺する。大衆文学の直木賞、純文学の芥川賞。玄人女の直木賞、素人娘の芥川賞。初回の芥川賞選考委員会4回開催。石川達三が受賞、太宰治は大穴だった。選考会での大物作家たちの言動の紹介は面白かった。「太陽の季節」で芥川賞を有名にした石原慎太郎とは湘南高校の同級生、大江健三郎のデビュー時の様子など、実に興味深い。半分は友情、半分は社業だが、作家の名前を付けて賞と賞金を出すという菊池寛は天才という結論だった。

松本清張菊池寛の文学」(1987年10月31日。江藤淳と同じイベントでの講演)。菊池寛の文学は「貧乏」と「醜男」であることが源である。逆境と貧乏と学校の相次ぐ中退。書斎派の漱石を嫌悪。人生派のリアリズムに大きな価値。本物の感動を与える作品。清張「たった一本の代表作、人口に膾炙した作品があるかが作家の価値を決める」。「坊っちゃん」の漱石と鴎外、「金色夜叉」の尾崎紅葉

 

鹿島茂の連載「菊池寛アンド・カンパニー」(「文藝春秋創刊100周年記念企画)の4月号。今月のテーマは「英語天才伝説」。高松藩の藩儒の家系。永井荷風とは敵同士。高等師範、明治、早稲田を中退。4年遅れで一高。ジグザグ人生。普遍性志向。

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週末の京都行の手配:ホテル。新幹線。人物記念館調べ。藤原先生夫妻との夕食。

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「名言との対話」3月28日。桂三木助(3代目)「二十年たって似合いの好い夫婦」

三代目 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈戸籍上は1903年2月17日〉 - 1

961年1月16日)は、落語家

6代目春風亭柳橋に弟子いり。その後、放浪、廃業、踊り御師匠、そして賭場への出入りなどのすさんだ生活を送る。賭場では「隼の七」という名前で知られていた。

踊りの師匠時代の25歳年下の弟子と恋愛するが、相手の親からは「三木助を継げるような立派な芸人になれたら」という条件を出される。心機一転、精進し3代目を継ぐことができて晴れて結婚にこぎつけた。

若い頃はあまりぱっとしなかったが、壮年以降に名人となった遅咲きであった。特に練りに練った「浜芝」という演目は素晴らしく、「浜芝の三木助」と呼ばれるほどになった。

噺家が詠んだ昭和川柳 落語名人たちによる名句・迷句500』を手にした。

桂三木助の川柳を以下に記す。

紋付が板につく迄小十年

新聞の頼りにならぬ事を知り

呑めぬ奴受け放しで膳の上

初鰹買えない奴が冷奴

手拭いで鼻をこすって強意見

近頃の米屋ようやく世辞を云ひ

悪口をいわれ乍らに金を貯め

世話女房大根一ツを使い分け

文楽志ん生・柳好そろって花見かな

競輪の帰り自転車を見ると腹が立ち

岩い物半分返る気で祝ひ

耳たぼをまづ染めてから下をむき

気短なくせに一番釣りが好き

銀時計売った人が二階借り

女房の帯から這入る年の暮れ

二十年たって似合いの好い夫婦

鼻の穴黒い炭屋の律義めき

笑ふ子のゑくぼ晩酌のぞきこみ

安物のオーバー目方の重いこと

セッカチな客は弓取立ってみる

千両の灯り吉原三下り

鼻毛抜きクシャミしている暇なこと

桂三木助の川柳は、女房、夫婦、家族の描写も多い。また、はなし家らしい目の付け所が随所にあり、まるで落語の世界のようだ。弟分である川柳は自然を詠む兄貴分の俳句と違い、人間、人情、世間を描写しようとする。短歌は心を詠ずる短詩である。川柳という人間諷詠は詠む人の人生観がにじみ出てくる。余技である桂三木助の川柳を読むと、桂三木助の目、そして人柄がよくわかる気がした。

恋女房を持つ三木助にして、似合いの夫婦になれたのは20年である。