「中島敦展」ーー池澤夏樹の解説が出色。「山月記」「名人伝」「李陵」を再読。

中島敦展(神奈川近代文学館)。

中島敦(1909-1924年)。享年33。作品数は20数編、著書は2冊。文壇デビューは1924年2月、12月死去。1909年生まれの同年は松本清張

池澤夏樹の解説が出色だ。生誕110年、没後77年、司馬遷没後2100年。

「奥行の知れない深い構成と細部に至る完成度」「グローバルでもなくユニバーサルでもなく、ワールド。それも歴史を含む地理」「膨大な教養」「漢文の素養に英語を重ねて育ち」「中国古代以来の歴史と現代世界の隅々に及ぶ地理を自分の掌中に収めた」「古来、文学は先行する作品を足場として書かれてきた。伝統を受け継いで、そこを起点にどれほど遠くまで行けるかが才能の力だ」「彼が南洋に向けて船出した港は眼の下にある。そこまで含めて今回の展示と思っていただきたい」

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「才能は自前、しかしその先の幸運と不運は天の配剤である」

「生前にはほとんど知られることなく、没後に広く読まれるようになったという珍しいタイプの文学者である。作品の力だけで多くの読者を獲得し、その勢いは歳月を重ねるごとにいよいよ増している」
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山月記」「名人伝」「李陵」を再読した。 

山月記「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦をいとう怠惰とが俺のすべてだたtのだ」

名人伝「ああ、夫子画が、---古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?ああ、弓という名も、その使い道も!

李陵「見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として恐れた。今でも己の過去を決して非なりと思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやてのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、何としても李陵にはこたえた」

3人の主人公であは李陵、蘇武、そして司馬遷。稿を起こしてから14年、腐刑の禍に遭ってから8年、それに増補、推敲を加えて数年。史記130巻、52万6500字が完成。
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「名言との対話」11月9日。森比佐志「いちばんあかるい★をさがしなさい。そのましたにおおきな●があります。そのかげに▲がありますから、はいっていきなさい」

に移動森 比左志(もり ひさし、1917年10月2日 - 2018年11月9日)は、日本の児童文学作家翻訳家教育評論家。センテナリアン。

鎌倉師範学校(後の横浜国立大学教育学部)を卒業し、1968年まで50歳を越えるあたりまで小学校教諭を務める。もともとは歌誌「創生」の発行人の歌人である。教師生活のかたわら外国の児童文学作品の翻訳を行い、エリック・カールはらぺこあおむし』など著名な作品を多数手がけていた。2018年11月9日心筋梗塞により死去。101歳没。

児童文学関係の受賞も多い。1971年 「ちいさなきいろいかさ」(絵/にしまきかやこ)で第18回産経児童出版文化賞受賞。1984年 「くまのアーネストおじさん 既刊3冊」(作/ガブリエル・バンサン)で第31回産経児童出版文化賞受賞。1998年 「おてがみです あるゆうびんやさんのおはなし」(作/ガブリエル・バンサン)で第44回産経児童出版文化賞ニッポン放送賞受賞。2009年 歌集「月の谷」で日本歌人クラブ東京ブロック優良歌集賞受賞。

エリック=カールさく・え、もりひさしやく「たんじょうびのふしぎなえがみ」を読んだ。カールはコラージュ(はり絵)の絵本をつくる人だ。

「たんじょうの前の日、チムはふしぎな手紙をみつけました。★や▲や■などmおかしなしるしがかかれている手紙です。チムは暗号のようなそのしるしを、一つ一つうまくといて、とてもすばらしいものを手に入れました。、、、たんじょう日を、よりいっそう楽しくしてくれる、ふしぎな手紙の絵本」、と紹介されている。

「パパ ママより」もらったこの絵本の 本文は、「、、、、すると■がありますから、のぞいてごらん。そこにびっくりするようなものがまっていますよ」などの記述に従っていくと、最後には」「ハッピー バースデ! たんほう日 おめでとう! これがプレゼントです。」とあり、次のページをめくると、今までの道のりの全体がわかる絵になっている。子どもに興味を持たせる工夫が随所にある楽しい絵本だ。誕生日のプレゼントにふさわしい絵本だ。やさしい言葉に翻訳された言葉は、著者と訳者のやさしい人柄をしのばせる。絵本という分野に精進する人々の姿は神々しい。

 

 

 

 

 

 

「名言との対話」11月9日。石田英一郎「科学は異端と自由討究の精神の失われないところにのみ発達する。もともと異端の精神に出発したマルクスエンゲルスの書も」

石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 - 1968年11月9日)は、日本文化人類学者民族学者

男爵石田八弥の長男として大阪に生まれ,第一高等学校から河上肇教授を慕って京都帝国大学経済学部に進むが中退する。思想問題で検挙され男爵を返上。治安維持法により逮捕され(学連事件),1928年より5年間堺刑務所に服役。刑務所の中中国の古典から古事記日本書紀に至るまで読破する。 釈放後、民族学研究所があったウィーン大学民族学科に2年間留学する。

「最前線へ疎開しよう」と夫妻は幼児を連れて、張家口の蒙古善隣協会の西北研究所の副所長。所長は生態学者で探検家の今西錦司である。1年で東京へ。『河童駒引考』を世に贈った。桃太郎や一寸法師の物語りが、はるかユーラシア大陸旧石器時代文化と社会組織に関連することを立証する見事な理論の展開。柳田国男とは異なる第二の民俗学だった。

1949年法政大学教授。1951年東京大学東洋文化研究所教授。1年間の外国出張の後、「文化人類学ノート」を出版。文化人類学教室の初代主任を務めた。理学部人類学教室との確執があった。第一次東大アンデス学術調査団団長。日本民族学会会長。名著「文化人類学ノート」は、私も大学生時代に手にした記憶がある。

主著の一つである「桃太郎の母」には、この書をニコライ・ネフスキー先生にささぐと書いている。ニコライ・ネフスキーは、ペテルブルク大学で革命運動家として活躍し、ロシア革命以前に日本に来て、日本婦人と結婚していた学者である。石田は京大で学んでいる。

 石田英一郎全集( 筑摩書房)には「文化人類学序説 文化とは何か ほか。文化人類学ノート 歴史科学としての民俗学民族学 ほか。東西抄 日本文化論 ほか。人間を求めて 日本国家の起源 ほか。河童駒引考 ほか。桃太郎の母 ほか。マヤ文明 ラテン・アメリカの歴史と文化 ほか。人類と文明の誕生 ほか」の全8巻がある。

 「およそ学問の世界に、たとえば毛沢東思想を学習すれば事足りるといったような安易な道はゆるされない」「そう断定するならば、確かな証拠をあげて教えていただきたい」という石田は戦闘的であり、反骨であり、天邪鬼であった。独学の人・石田英一郎は、定説ではなく異端の存在を許す自由が大事であることを教えてくれる。古典のほとんどは異端から出発しているのである。