ウオーキングに余慶あり。

ウオーキングに余慶あり。今日も1万歩でした。iPhoneのカメラとラジオ。

 

後姿探検隊を復活。


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花の美しさが目に染みる。


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五木寛之の「千夜一話」。「鳥取と島根の旅」の話題。人物中心のトークを楽しんだ。

 

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デメケン。力丸。深呼吸事務局。「遅咲き偉人伝」プロジェクト。

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「名言との対話」5月9日。 岡野喜太郎「私の一生は毎日毎日が真剣勝負のようなものであったということである」

岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1965年(昭和40年)6月6日)は、銀行家。

駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)出身。静岡県多額納税者。スルガ銀行創設者。沼津市名誉市民。静岡県屈指の実業家であった。享年101。

私の履歴書 第五集』の「岡野喜太郎」を読んだ。今では日経新聞の名物企画となった「私の履歴書」だが、65年前の1957年では、まだ第5冊だった。他には木村義雄、三船久蔵、武者小路実篤、安井誠一郎など7人が紹介されている。スルガ銀行創業者の岡野喜太郎は101歳まで生きたセンテナリアンだ。1957年、95歳のときの「私の履歴書」である。

 1957年(昭和32年)まで62年間も駿河銀行の頭取を務めた。沼津市の青野公園には岡野の石像があり、「欲を離れるのが長寿の秘訣である」という意味の言葉が刻まれている。

以下、岡野喜太郎語録のメモから。

・母は本当に偉かった。

・私の一生は青野の村人、駿河、伊豆、相模の事業家に下駄の鼻緒を立ててやたようなものではなかろうか。

・未曾有の災害に遭い、師範学校を辞め、青年農夫になった。

・人のやることはなんでもやる、人よりはよくやる、決して人にまけない。

・貯蓄組合をつくる。一番小さい相方銀行を設立し頭取になった。事務員、小使い。駿東実業銀行。駿河銀行。合併は競争心を退嬰させる。

・知恵を貸す。忠告をする。それが真の銀行家だ。

・貯蓄の習慣と克己の心。克己の心と実行。

・貯蓄は人を自立させ、家を繁栄させ、国家を隆盛に導くはや道である。

・毎日が真剣勝負。

・銀行の経営もむずかしいことではない。平凡に徹することだ。「入るを計って出づるを制する」。家の経営と同じである。

以上のメモが私の読書メモに載っている。そのときの言葉かはわからないが、岡野喜一郎の言葉を追いかけてみよう。

  • 「私はもう安閑として机にかじりついている気がしなかった。自ら乞うて学校を退き家事を手伝って、わが家の危機をのりこえるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決意した」(:豆陽中学師範科に在学中の1885年秋、20歳の時、郷里一帯を襲った飢饉を目のあたりにして)
  • 「明治18年の秋は幸いに豊作だったので、村はようやく愁眉を開いたが、天災は時を定めずやってくる。それを考えると心配でたまらぬ。それには平素から蓄えをしておいて、万一の場合に備えるほかはない。そこで貯金をしようと思いついた。働くことも人一倍働く、働いて得た金はできるだけ節約して貯蓄することが必要だと思った。しかし、貯蓄といっても一人ではなかなかできにくい。また村全体が立ち直るのには、村全体がやらなければ意味がない。私は貯蓄組合をつくろうと思った」
  • 「根方銀行が発足したのとき日本の銀行数は817行、その払込資本金は総計5216万余円であるから一行平均6万円弱である。わずか1万円で発足した勇気たるや、大胆不敵というべきで、そのころできた銀行の中でいちばん小さかったように思う。しかし、小さいといっても銀行は銀行、頭取は頭取である。事務員といっては杉本常蔵1人、私が頭取兼事務員兼小使で、何もかも1人でやるようなものであった」
  • 「勤倹貯蓄をする者に悪いことはできません。難しいことを言わなくても、修身の教科書はなくても、これを徹底すれば道徳も興るはずです。世の中もどんなに明るくなるかもしれません」
  • 「私は関東大震災で妻と三女を失った。両人は湯河原の天野屋に保養に行く途中、根府川地震にあい、列車もろとも海中に沈んだのである。この不幸を聞き、一瞬意気消沈した。しかし、数秒後には猛然と責任感が湧きあがった。私は駿河銀行の頭取だ。銀行家としての使命を果たさなければならぬ。家の不幸はそれに比すれば、些細な私事である。私は全力が奮い立った。そしてただちに健脚の若い行員を集めて、支店出張所の被害状況を調べ、その所要資金の見込み額を至急本店に報告することを命じた」
  • 「非常時にも平常のように営業するのが銀行の使命である。お客様から預かった大切なお金を、この災害(関東大震災)で金のいるときに、支払いの出来るのに支払いをしてはならないというはずがない。必要なのは復興である。復興の資金である」
  • 「銀行の甲乙は平常の時にはなかなかつきにくいが、非常の場合にはっきりその差が分かるものである」
  • 「私は、若い事業家が失敗して、駿河銀行に救済を求めに来ると、肩をたたき、親身になって再起の方法を考えてやった。金を貸してやったが良いと思えば貸してやるし、貸さぬ方が良いと思えば貸さないで再起の道を示した。金を貸すばかりが銀行家ではない。知恵も増し、緩急よろしきを得た忠告もしてやるのが真の銀行である。これは私の60年以上に及ぶ頭取生活から得た尊い体験である」
  • 「貯蓄は理論ではありません。克己と実行です。この敗戦による貧乏な日本を立ち上がらせるためには、尋常一様のことをやっていては駄目で、他の国の人より余計勉強し、余計節約してやらなければなりません」
  • 「人のやることは何でもやる。人よりはよくやる。決して人に負けない。それが私の信条であった。また、もって生まれた気性でもあった。子供のときから道で前の方を歩いている人を追い越すことに興味を持ち、幾人も幾人も追い越すと、それはひとつの喜びであった」

「波乱の多かった95年間の生涯を顧みて、つくづく思うことは、私の一生は毎日毎日が真剣勝負のようなものであったということである」。岡野喜太郎はその時々の災害や課題に直面したときに、何をすべきかを真剣に考え抜き、自らの欲を考えず、信じる解決案を果断に実行に移していく。その無我夢中の繰り返しの中で、気がつくと95歳になっていたとの述懐である。

この銀行は2018年に1兆円を超える不適切融資が発覚し、5代続いた一族経営は破綻して大きな話題になった。2021年に3代目の岡野喜一郎が設立した、三島氏の井上靖文学館、ベルナール・ビュフェ美術館を訪ねて感心したことがある。このとき、ビュフェ美術館も経営破綻の影響で所有者が変わっていた。その影響だろう。

「経営といっても何も難しいことではない。それは平凡に徹することである。私のような何の学問も経験もない者でもなんとかやってきたのである。煎じ詰めれば「入るを計って出を制する」一軒の家の経営と同じである」と語っていた創業者・岡野喜一郎の言葉を守れなかったのだろうか。企業の存続と継続は、やはり難題である。