中津:宝蔵寺。中津市博物館。塩湯。宝来軒。福岡:裏六本松プロジェクト。

宝蔵寺。

 

中津市博物館。企画展「土豪の城」展。中津城


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塩湯で子供の頃以来の湯に浸かる。明治29年創業。宇佐出身の名横綱双葉山が若い頃働いていたという。


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中津名物「宝来軒」。中津の駅ピアノ。鱧のベンチ。


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福岡の裏六本松プロジェクトで、探検部時代の仲間の馬場君と、JAL時代の仲間の松尾君、どちらも九大の同期。店主の松島凡さんと橘川さんを肴に楽しく語り合う。九大教養部にあった旧制福岡高校生前の銅像を久しぶりにみた。ホテル到着は12時少し前。


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「名言との対話」11月6日。川喜田半泥子「陶芸は余技だから売る必要がない。ゆえに自分の理想とするものを、他人のことなど気にせずに自由に自分の好きなように作ることができる」

川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年明治11年11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家実業家政治家

1903年明治36年)に百五銀行の取締役に就任。1919年大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めた。彼の時代に百五銀行三重県有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として活躍した。50歳を過ぎてから本格的に作陶する。自由奔放で破格な作風であった。

2010年に銀座松屋の「川喜田半泥子のすべて」展で名前だけは知っていたこの人物に触れた。「東の魯山人、西の半泥子」と並に称された一流の風流人。伊勢の豪商の家に生まれ、百五銀行頭取、地方議員などの要職をこなしつつ、書画、茶の湯、絵画、写真、建築、俳句と多芸ぶりを発揮する。とりわけ陶芸では破格の才を示し、自由奔放ななかにも雅趣に富む世界を創造、「昭和の光悦」と声価をを高める。1878年生まれで、魯山人より5才上、加藤唐九郎より20才上。84才まで風流の道に生きた。

36才から号として用いた「半泥子」は、「半ば泥(なず)みて、半ば泥まず」という意味である。「半泥子は、なににでも没頭し、泥んこになってしまう。泥んこになりながら、冷静におのれを見つめることを忘れない。大胆なふるまいをし、ハメをはずしているようでも、芯となる風雅の要諦は、けっして踏みはずさない。」(美術評論家・吉田耕三)

無茶法師と名乗った連載随筆が本になっている。それが「泥仏堂日録」で、連載中から人気があった。この日録の冒頭には、「此の無茶法師無茶苦茶が、是から記される日記である。読む人こそ災難である」とあり、単行本になるときのあいさつでは「、、それにしてもこれを読まされる方々こそお気の毒さまである」と書いている。人柄や処し方がわかる気がする。

書や俳句などではユーモアとウイットに富む作品が多い。
「大夢出門」という書は、Time is moneyの邦訳。
「波和遊」は、How are you?
「愛夢倶倶楽通志友」は、I am glad to see you.

芸術は遊びであり、生活の手段ではない。本阿弥光悦も自分も同じ考えだと半泥子は言う。趣味と本業の関係をどうするかは、いつの世も難題である。趣味が本業となれば、自由は消える。半泥子は昼は本業の銀行業務に正攻法で精を出し、余暇を存分に使って余技の陶芸の世界を自由奔放に満喫している。半分どろんこという意味の半泥子という名はこの人の生き方だ。