女性デー:矢島楫子。荻野吟子。三浦綾子。石井筆子・山田火砂子。

 

NHKラジオ深夜便で山田火砂子(90歳)のインタビューを聴いた。山田は現役の映画監督だ。全国の小劇場で公開中の映画「われ弱ければ 矢島楫子伝」が話題だった。

矢島楫子1833年生まれの女性のために社会改革運動を推進した人物。日本初の女性医師である荻野吟子がこの映画の原作である。

山田はこの小説を読み、映画作りを決心する。また山田自身の子どもの知的障害がきっかけとなって、日本初の知的障害児施設「滝乃川学園」の石井筆子の存在を知ることになって、映画『筆子その愛ーー天使のピアノ』を監督している。

女性の生き方をテーマとした一つの流れがあることがわかった。矢島楫子。荻野吟子。三浦綾子。石井筆子・山田火砂子。三浦綾子が書いた矢島と荻野を山田が映画化し、石井筆子も含めて映画にしている。山田火砂子が伝えようとしいる先人の姿、特に優れた女性の生涯を知って欲しいという強い志に深い感銘を受けた。

「不良少年の父」留岡幸助を描く『大地の詩』も製作費を募っている。

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「われ弱ければ 矢島楫子伝」、吟子の師である「矢島楫子」に興味を持ち、原作「われ弱ければ 矢島楫子伝」(三浦綾子・著)を読みその生き様に感動して、映画化することととなりました。

 日本の女子教育や女性の地位向上に尽力し、今日の男女共同参画社会の礎を築いた矢嶋家姉妹「四賢婦人」と地元では呼ばれている。熊本益城町の矢嶋家は、竹崎順子(3女)・徳富久子(4女)・横井つせ子(5女)・矢嶋楫子(6女)の姉妹を出している。4女の徳富久子は、徳富蘇峰の妻であるから、矢島子は蘇峰と蘆花の叔母にあたる。矢嶋楫子の生涯を描いた映画。

婦人参政権運動、禁酒運動、廃娼運動、夫婦一夫一婦制、男女平等論など、 社会改革運動にも力を


山田火砂子(1932年生)。
東京生まれ。戦後女性バンド「ウエスタン・ローズ」で活躍後、舞台女優を経て、映画プロデューサーに。実写版の「はだしのゲン」、「春男の翔んだ空」、「裸の大将放浪記」など数多くの映画を製作・公開した。初の監督作品としては、アニメ映画「エンジェルがとんだ日」がある。これは重度の知 的障害者である長女とともに歩んできた半生を題材としたもの。
「児童福祉の父」と呼ばれた石井十次を描いた「石井のおとうさんありがとう」は平成17年度日本児童福祉文化賞を受賞。著書に「トマトが咲いた」があるが、これは娘2人を育てながら、映画のプロデューサーとしてがんばってきた、泣き笑いの29年間をまとめたもの。他に「夢見る火砂子さん映画石井十次を撮る」。また学校・施設・イベント等で、福祉、教育、子育て、平和など幅広いテーマで講演活動も行っており、実績も豊富である。平成22年日本映画テレビプロデュサー協会功労賞受賞。同年 第55回映画の日執行委員会表彰。平成23年 児童福祉文化賞 特別部門賞受賞。山田は『一粒の麦 荻野吟子の生涯』も監督している。

 

荻野吟子。

1851年生まれ、1913年永眠。享年63歳。日本初の女医として有名な人である。この人の人生はまことに凄まじい。6月23日、永眠。「人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。これでいいのだ。」

18歳、稲村貫一郎と結婚。両宜塾で松本萬年に学ぶ。(貫一郎は若くして名主に。埼玉県議会副議長。実業家としても大成)。19歳、夫から淋病を移され離婚し、大学東校付属病院に入院。子供を産めない体に。診察の羞恥屈辱感から、女性が女性を診るべきだと、女医を目指す決心をする。24歳、東京女子師範学校(お茶の水女子大)第一期生として入学、卒業。28歳、私立医学校の好寿院に入学、31歳で卒業。男装して受講。抜群の成績。31歳、医術開業試験嘆願書を、東京府、東京都、埼玉県に提出する。女性には認められないとしていずれも却下される。33歳、ようやく受験が許され前期試験に合格、翌年後期試験合格。女医第一号。ようやく鉄の扉が開く。35歳、本郷湯島に医院を開業。産婦人科。本郷教会で海老名弾正から洗礼。東京婦人矯風会に参加、後に風俗部長。36歳、大日本婦人衛生会に参画。翌々年明治女学校教師校医。舎監。40歳、熊本県の志方之善27歳と結婚。同志社の学生。「志方と一緒に神の道を進みます」45歳、北海道での夫のキリスト教理想郷建設に協力。トミを養女に。46歳、医院を開業。淑徳婦人会会長。婦人解放運動に先駆。54歳、夫病死。57歳、北海道を引き揚げ、東京都向島に医院を開業。(北海道瀬棚町に記念館)。吉岡弥生は医院にも足を運び吟子の影響を強く受けた。63歳、永眠。

「女医になる。きっと女医になってやる。きっとなる。きっとなってみかえしてやる」

「学問というものが単に知るということではなく、疑うということから始まることを知った」

「女性の地位を認めているのは耶蘇教だけです。耶蘇教を拡めることは女性の地位を高めることになるはずです」

「人とその友のために 己の命を 捨つるは是れより 大なる愛はなし」

東京女子医大創設の吉岡弥生日本女子大の開学に功績のあった広岡浅子と、明治の女子教育の先駆者の先達が荻野吟子だ。埼玉県熊谷市俵瀬の荻野吟子記念館でじっくりと人生を眺めると、苦労の連続の激しい一生に頭がさがる。人と違うことを成そうとするからには、人と同じ安穏な生活を望んではならない。これでいいのだときっぱりと言う荻野吟子は志の女性だ。

2016年。埼玉県熊谷市俵瀬の荻野吟子記念館を訪ねる。
このところ、東京女子医大創設の吉岡弥生日本女子大の開学に功績のあった広岡浅子と、明治の女子教育の先駆者を訪ねている。
その女傑シリーズの先輩が、荻野吟子だ。1851年生まれ、!913年永眠。享年63歳。
日本初の女医として有名な人である。
この人の人生はまことに凄まじい。18歳、稲村貫一郎と結婚。両宜塾で松本萬年に学ぶ。(貫一郎は若くして名主に。埼玉県議会副議長。実業家としても大成)
19歳、夫から淋病を移され離婚し、大学東校付属病院に入院。子供を産めない体に。診察の羞恥屈辱感から、女性が女性を診るべきだと、女医を目指す決心をする。
「女医になる。きっと女医になってやる。きっとなる。きっとなってみかえしてやる」
「学問というものが単に知るということではなく、疑うということから始まることを知った」
24歳、東京女子師範学校(お茶の水女子大)第一期生として入学、卒業。
本名の「ぎん」は新しい時代を切り拓く女の名としては迫力不足として「吟子」に変える。
「人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。これでいいのだ。」
28歳、私立医学校の好寿院に入学、31歳で卒業。男装して受講。抜群の成績。
31歳、医術開業試験嘆願書を、東京府、東京都、埼玉県に提出する。女性には認められないとしていずれも却下される。
玉出身の塙保己一が復元した「令義解」(養老律令の公的注釈書)に、「女医は官有の賎民で十五歳以上、二十五歳以下の意識が優れている者三十人を選んで別所に安置しなさい」とあるのを発見する。兵部省高官の石黒、衛生局長長長与専斉に直訴。
33歳、ようやく受験が許され前期試験に合格、翌年後期試験合格。女医第一号。ようやく鉄の扉が開く。
35歳、本郷湯島に医院を開業。産婦人科。本郷教会で海老名弾正から洗礼。東京婦人矯風会に参加、後に風俗部長。
「女性の地位を認めているのは耶蘇教だけです。耶蘇教を拡めることは女性の地位を高めることになるはずです」
36歳、大日本婦人衛生会に参画。翌々年明治女学校教師校医。舎監。
40歳、熊本県の志方之善27歳と結婚。同志社の学生。
「志方と一緒に神の道を進みます」
45歳、北海道での夫のキリスト教理想郷建設に協力。トミを養女に。
46歳、医院を開業。淑徳婦人会会長。婦人解放運動に先駆。
54歳、夫病死。
57歳、北海道を引き揚げ、東京都向島に医院を開業。(北海道瀬棚町に記念館)
吉岡弥生は医院にも足を運び吟子の影響を強く受けた。
63歳、永眠。この人の一生は感興を誘う。作家の渡辺淳一は『花埋み」として1970年に小説にしている。1998年に三田佳子主演の舞台「命燃えて」が脚光を浴びる。この記念館は2004年に開館している。

 

三浦綾子(1922年生)。

「つまずくのは、恥ずかしいことじゃない。立ち上がらないことが、恥ずかしい。」。三浦 綾子(みうら あやこ、1922年4月25日 - 1999年10月12日)は、日本女性作家北海道旭川市出身小学校教師となる。第二次大戦後肺結核の闘病生活をおくり、キリスト教に入信。昭和34年三浦光世結婚。39年人間原罪をえがいた「氷点」が朝日新聞1000万円懸賞小説に入選,映画テレビドラマ化されて,人気作家となった。享年77 。 

旭川公園の中に素敵な形をした記念館が建っている。24歳から37歳までカリエス絶対安静でベッドの上で過ごした三浦綾子。42歳のとき朝日新聞の1千万円の懸賞小説で一席になった「氷点」を書き、その後多忙作家生活に入る。30年間で70余冊本を上梓。全作品が並んでいる。凄まじい闘病生活。ほとばしる表現意欲と膨大で質の高い仕事に感服。この記念館は市民の声から発してできたという。

「秀れた人間というのは、他の人間が、愚かには見えぬ人間のことだろう。」

つまずくことを恐れてはならない。何かをやろうとすれば、失敗はつきものだ。失敗しないということは、何もやらないことの裏返しである。つまずきの体験によって、人はすこし賢くなる。その上で、もう一度、挑戦する。その繰り返しが人生である三浦綾子の壮絶な人生をみるとき、この人は何度も何度も立ち上がった勇気の人であることがわかる。

 

石井筆子(1861年生)

2022年に滝川学園を訪問。長島要一『明治の国際人・石井筆子』(新評論)を購入。石井筆子は、1861年、長崎大村生まれ。明治初期に岩倉使節団に同行しアメリカ留学した山川捨松や津田梅子はよく知られているが、ヨーロッパ留学組もいたのである。筆子は2年間の留学を終えて、華族学校のフランス語講師となる。

大村藩の家老の家柄だった小鹿島果と結婚する。子どもは3人とも身体障碍児だった。筆子は31歳で夫に先立たれる。2年後の1893年から1902年まで静修女学校の校長となる。立教女学校の教頭をつとめていて、1891年に濃尾地震で生まれた孤児を救済する目的で聖三一孤女学院(当初は荻野吟子宅に開設)を立ち上げていた石井亮一を迎え入れる。この建物は1902年に津田梅子が購入し、女子英学塾(後の津田塾大学)の分校になる。

1898年にアメリカで開催された第4回国際婦人集会に津田梅子とともに日本代表として出席。このとき、知的障碍児教育を学ぶために滞米中の石井と出会っている。

筆子は、この本で様々の人からその姿を記述されている。美貌。大柄。ダンスがうまい。凛とした態度。知的。機転がきく。英語・フランス語・オランダ語が堪能。、、。

1903年、42歳の筆子は6歳年下の石井亮一と再婚。石井は日本の「知的障碍者教育・福祉の父」と呼ばれている。聖三一孤女学院は1897年に「滝乃川学園」と名称を変え、知的障碍児を預かる機関として再出発する。筆子は看護人を育てる分野の責任者となっている。

1928年、学園は谷保村へ移転。1937年、亮一は71歳で死去。筆子は学園長に就任。1944年、84歳で石井筆子死去。第3代学園長は渋沢栄一

「女性は男性のために存在しているのではなく、また男性も女性のために存在しているのではない。もしも女性が男性のために存在しているになら、男性もまた女性のために存在していることになる」石井筆子は「無名の人」と呼ばれるが、もっと知られていい人だ

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JAL客室本部時代の仲間の環、堀の両君と横浜の「銀座ライオン相鉄」で食事会。

1万歩。

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「名言との対話」11月12日。草野心平「死んだら死んだで生きていくさ」

草野心平1903年明治36年)5月12日 - 1988年昭和63年)11月12日)は日本詩人

中国広州の嶺南大を中退。在学中の大正14年詩誌「銅鑼」を創刊。帰国後の昭和3年アナーキスティックな心情を蛙(かえる)に託した第1詩集「第百階級」をだし,「学校」を創刊。10年「歴程」創刊に参加し,戦後は主宰する。23年「定本蛙」で第1回読売文学賞。50年芸術院会員。62年文化勲章

1998年に故郷の福島県いわき市いわき市立草野心平記念文学館が開館しており2006年に訪問したことがある。

草野心平という名前は、人物記念館めぐりではよくでてくる名前である。高村光太郎の高村山荘の入り口の書が草野心平の書いたものであったし、宮沢賢治の発見者としても名前が残っている。友人の多さと質の高さという点で、この人に並ぶ人はいない。また、草野心平は「火の車」という居酒屋を経営していて、料理の名前も詩人らしい機知にあふれていたが、友人たちが常にたむろし、まともに金を払わなかったので、台所事情はまさに「火の車」であり、倒産の憂き目にあっている。

2008年に植村冒険館を訪問した。植村直己の葬儀で詩人の草野心平が自作の詩を朗読している。草野心平記念館で友人の植村が冒険行で持って帰ったおみやげの石が展示されていたことを思い出した。植村と草野の組み合わせを意外に思った。植村は詩人に贈られる歴程賞を詩人以外で初めてもらっている。「植村氏は未知の世界の追求、探検において、ポエジーの本質に通じる絶対的精神を示している」が受賞理由だった。植村の行動自身が優れた詩であったという評価だろう。この賞の贈呈は草野心平の推薦だったに違いない。

この人の書いた詩として私が唯一覚えていたのは、「ゴッホにはならずに、世界のMunaktaになった」という棟方志功を語った詩である。

「鍛冶屋の息子は 相槌の火花を散らしながら わだばゴッホになる 裁判所の給仕をやり 貉の仲間と徒党を組んで わだばゴッホになる とわめいた ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし ゴッホにはならずに 世界の Munakataになった 古稀の彼は つないだ和紙で鉢巻きをし 板にすれすれの独眼の そして近視の眼鏡をぎらつかせ 彫る 棟方志功を彫りつける」

心平はこれを筆書きにし、病床にあった晩年の志功を見舞うと、海外の展覧会でグランプリをいくつも受賞した世界のMunakataはベッドから下りて、両手を合わせて喜んだとのことだ

高村光太郎が住んだ岩手県花巻の高村山荘を2006年に訪問。小屋は現在では二重の套屋で囲われている。最初は、1957年秋に、光太郎のいなくなった小屋が傷んできたのを見かねて村人たちが覆いを被せたものである。村人たちの敬愛と愛情によって建てられた套屋は村人が1本1本持ち寄った木材で出来ている。さらに1近隣にできた高村記念館が1977年いその外側に覆いをつくった。入り口には、友人の草野心平の「無得殿」という書が掲げてあった。般若心経からとった字句である。

宮沢賢治が生前に出版したのは意外なほど少ない。詩集「春と阿修羅」と童話「注文の多い料理店」の2つでのみである。盛岡中学で10年先輩となる石川啄木の「一握の砂」に影響を受けた賢治が注目を浴びるのは、死後のことである。自費出版の「春と修羅」は辻潤が評価し、中国にいた友人の草野心平に知らせる。草野は賢治の書を「世界の驚異」と表現している。草野は友人の高村光太郎にみせたことが縁で、賢治は5分ほど光太郎と立ち話もしている。賢治より13歳年長の高村光太郎は賢治の詩を発表すべきだと考え、東京で宮澤賢治追悼会を開いている。そして宮澤賢治全集を10年かけて刊行する。

「死んだら死んだで生きていくさ」は、悠然とした、こだわらない、大人の風格を思わせる名言である。そうだ、死んだら死んだで生きていけばよいのだ、そうおもうと何か肩の荷が下りるような気がする。