youtube「遅咲き偉人伝」(深呼吸放送局)鈴木大拙編をリリース。夜は図解塾で梅棹忠夫「情報文明論」。

 

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「図解塾」。

  • 今日もありがとうございました。前回の課題のパワポ、皆さんの図や自分の図を見ていただきながらの、追加やわからない箇所の確認、および修正の過程を見て、図がどんどん出来上がっていく完成版に近づいていく、リアル感があって良かったです。感覚器官の発達から脳神経系へ。絵画から言語へ、音声言語の獲得した人間が、文字を持ち、さらに文化を持つようになる。文字は骨→石→紙→印刷→電信電話電気と、現在にいたるまでの情報産業の歴史をきき、さらに、生態学、工業社会、すべて情報というキーワードからの視点での説明をきいて、この世界には情報というキーワードを含んでいるものばかりだなと、思いました。またこれを図にまとめ、次回修正を加えるのも楽しみです。寺島先生の「世界を知る力」のお話とあわせて、50年前からの梅棹先生の考えと、今のリアルな日本や各国のこと、両方のお話が聞けて、とてもよい講義です。次回もどうぞよろしくお願いいたします。
  • 先生、皆様、本日もありがとうございました。説明に上手に比喩を用いるとより伝わりやすくなるという手法やひらがなを多く使う梅棹先生の伝える技術も参考になりました。今日は、「動物社会と情報」からはじまり、文字化による情報の蓄積が進化して情報社会へと進んでいく流れや、前回の復讐にもつながる農業社会の中で次の工業社会の芽が始まり、工業社会の中に情報社会の芽が出ているという関係性を工業社会の中で生まれた紙や電子通信などの媒体の重要性とともに説明いただきました。言葉によるコミュニケーションの上に文字などの記録する技術を身につけた壁画時代の文明が今の情報社会の元と思うとその壮大さにただただ感銘を受けます。次回もよろしくお願いします。
  • 今日は30分遅れての参加でした。やってきた課題の説明をして、後でコメントいただきましたが案外分かっていなかったところがいろいろあるのに気づきました。梅棹先生の使っている言葉を勝手に変えてはいけないけど、説明できるために適宜補うのも大切だと認識しました。人間の進化において言語の発達、さらに情報の記録としての文字の発達について西洋と東洋の対比はなかなか興味深いものがありました。また、動物の社会と情報もよく分かったし、情報生態学という言葉もなるほどと思いました。農業における生産技術の情報化、農産物が感覚的情報を担う担荷体になること、食料から食品へというのも納得です。梅棹先生の先見性にますます感心しました。次回もよろしくお願いします。
  • 久恒先生、みなさま、本日の図解塾ありがとうございました。前半の『情報の文明学』の手書き図解をパワポにする宿題では、担当した「情報経済学のすすめ」のところを、見ていただきました。経済学は、大量生産・大量販売・大量消費の「ものの経済学」であったが、情報産業化が進む中で、個別化・質を高める「情報の経済学」となっていく、という内容。その中に「情報は調味料。素材にふりかけると値があがる。」という面白い比喩があって、具体的な事例もいくつか思い浮かび、楽しく理解を深めることができました。後半、次回の宿題となる手書き図解の解説では、「感覚器官」や「媒体」「環境」「進化」などの視点から「情報」を眺める壮大なスケールの内容でした。思いがけない切り口で思考が展開されていて大変興味深く、パワポ化していくのが、楽しみです。次回もよろしくお願いします。

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昼食は永山で橘川さんと。広島、博多、パンフ、、、。

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「名言との対話」5月25日。浜田広介「童話五十余年 立ち止まり 振り返り またも行く 一筋の道だった」

浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年明治26年〉5月25日 - 1973年昭和48年〉11月17日)は、日本童話作家

山形県高畠町出身。担任の先生に文才を活かせと励まされ文才に目覚める。雑誌「少年世界」の懸賞に「形見の萩」が入選、以後数年にわたり、しばしば入選した。山形県米沢中学校(現米沢興譲館高等学校)を経て、早稲田大学高等予科に入学。その年に短編小説『零落』が「万朝報」の懸賞小説に入選したのを最初として7回の入選を数え、「途暗し」では北村透谷賞を受賞している。また、最初の童話作品「黄金の稲束」が大阪朝日新聞の懸賞に一等入選、選者の巌谷小波氏より激賞される。

早稲田大学英文科を卒業。実業之日本社に入り、雑誌「良友」の編集をしながら、同誌に毎号、童話、童謡等を発表する。1923年の関東大震災により実業之日本社社屋も倒壊焼失。退社し以後文筆に入る。

『ひらがな童話集』(金の星社)、『ニゲタカメノコ』(文昭社)を刊行、ともに文部省推薦となる。『ひらがな童話集』に対し第一回児童文化賞。「龍の目の涙」に対し野間文芸奨励賞。芸能選奨文部大臣賞。1955年には日本児童文芸家協会の初代理事長に就任。

「お伽話」から「童話」への変化を主張した浜田の作品は「ひろすけ童話」とも呼ばれている。平易な語り口と純朴で心を打つ内容で、教科書絵本で親しまれている。素朴、純情、信頼、愛情、そして何よりも善意で貫かれていた浜田の童話は、「ひろすけ童話」といわれた。坪田譲治小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれている。

帰郷のたびの同級会を楽しみにしていた浜田広助は、母校の屋代小学校に児童文学書69冊を贈り、その後も年々寄贈し、1953年からは「ひろすけ文庫」となる。その延長線上に、高幡町初の名誉町民となった。1989年には「浜田広助記念館」がオープンする。

私は2004年に山形県高畠町浜田広介記念館を訪問している。斜めの変わった大屋根をかぶった記念館だ。この町は童話の里づくりを目指している。「日本のアンデルセン」と呼ばれたひろすけは、生涯1000編に及ぶ童話を書いた。「ひろすけ童話賞」というのがあって、ねじめ正一「まいごのことり」やさだまさし「おばあちゃんのおにぎり」が受賞していた。

隣接した「ひろすけホール」を覗く。天井を除いては床からすべて木の小ホールで、ちょうどママさんたちのピュア・グレースという合唱団が練習をしていた。ゴスペルの歌声を座って聴いた。150席くらいの感じのいいホール。地域の交流施設としての役割を果たしていると感じた。

2004年にヤンキース松井秀樹選手がニューヨークで日本の3歳から14歳までの子どもたちに童話を読んで聞かせたというニュースがあったが、この童話とはひろすけの「泣いた赤鬼」だった。この童話は子どもの頃に読んだ記憶がある。

今回『浜田廣介童話集』(講談社文庫)を読んだ。赤鬼と青鬼の友情を描いた「泣いた赤鬼」はずいぶん久しぶりだった。また「月夜のきつね」「たぬきのちょうちん」「りゅうの目のなみだ」なども読んだ。鬼、きつね、たぬき、りゅうなどと素朴な人間たちとの交流が描かれている。みんなやさしいので、心があたたまる。

80歳で亡くなる前年の1972年には、自らの生涯をふり返って、「童話五十余年 立ち止まり 振り返り またも行く 一筋の道だった」と述懐している。50年以上にわたり、延々と描き続けた生涯の創作は1000編に及んでいるというから見事なものだ。1000という数字は、松本清張の作品1000点、宮本百合子の評論・随筆1000編、早坂暁の作品1000本などが思い浮かぶ。浜田廣介の場合も、彼らと同様に量に質がともなっているのが素晴らしい。

童話、童謡、絵本など子どもを対象とする分野に取り組んだ人をこの「名言との対話」で何人も紹介してきたが、こういう人たちは聖人という感じがする。