youtube「遅咲き偉人伝」ーー4人目は「宮脇俊三」(鉄道紀行作家)

youtube「遅咲き偉人伝」。理論編に続き、モデル篇は4人目。

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「名言との対話」2月26日。宮脇俊三「彼ら(車窓風景)は見てくれと私に言う。しかし同時に、おれのことをお前、書けるのか、と言っているように思われるのだ」

宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年12月9日 - 2003年2月26日)は、日本の編集者紀行作家
宮脇は大学を卒業後、中央公論社に入社。編集者として、『日本の歴史』シリーズや『世界の歴史』シリーズ、北杜夫の『ドクトルマンボウ』シリーズなど、数々のヒット作を世に送り出し、『中央公論』誌の編集長などを歴任する。51歳、常務取締役を最後に退職。

実は宮脇には、仕事以外に打ち込んでいたことがありました。それは、旅。それも鉄道旅行である。子どもの頃からの趣味である鉄道旅行をずっと続け、50歳では国鉄全線を完全に乗り切る。6月30日退職、そして7月10日『時刻表2万キロ』でデビュー。この作品で日本ノンフィクション賞を受賞。その後も、『最長片道切符の旅』『時刻表昭和史』『時刻表一人旅』『インド鉄道旅行』など、数多くの著作を著わし、紀行作家として不動の地位を築いた。54歳では「時刻表昭和史」が交通図書賞を受賞、58歳、「殺意の風景」で泉鏡花文学賞、65歳、「韓国・サハリン 鉄道紀行」で第1回JTB紀行文学大賞、72歳では鉄道紀行を文芸のジャンルとして確立したとの理由で菊池寛賞を受賞している。76歳で亡くなったが、戒名は「鉄道院周遊俊妙居士」といいう、いかにもというものだった。

国鉄全線完乗という愚かな行為」「この阿保らしき時刻表極道の物語」と自らを笑う宮脇は、自らのことを「珍獣」と呼んでいた。自らを「時刻表極道」と呼んでいた。奥さんは同行しないのか、というインタビューの質問に対する答えがふるっている。「ええ、私は汽車に乗るのが手段でなく目的だから、利害が対立して、能率半減になるんで」。

「旅はほんらい「線」であった。目的地があっても、そこに至る道程のなかに旅のよさがあった。「おくのほそ道」にしろ「東海道中膝栗毛」にしろ、そこに描かれたのは「点」よりももしろ「線」である」

「注文が多く、東奔西走の日々」と本人が言っていたように、昭和56年から58年までの3年間のスケジュール表を企画展でみたが、ほとんど休みなく日本全国を駆け巡る宮脇の姿が思い浮かぶ過酷な日程表だ。鉄道紀行は、移動自体が目的となっており、尋常ならざる体力と気力が要求される。旅行の携行品を記す。時刻表、地図1(25万分の1.車窓用)、地図2(2万5千分の1。歩いてみたいところ用)、歴史の本(文庫版の県別史)、ガイドブック、洗濯用ロープ(二日にいちいちはバス付きのホテルに泊まり下着を洗濯!)、針と糸、保健薬一式(ビタミンCや葉緑素)、痔の座薬(長いこと座っているので用心のため)、虫よけスプレー(史跡にはやぶ蚊が多い)、ウイスキーのポケット瓶(寝酒用)、スリッパ(車中用)、帽子、空気枕(車中の居眠り用)、小バッグ(丸えると手の中に入るくらいの薄地のもの)、メモ帳。カメラは原則として携行しない。旅の様子が目に見えるようだ。旅の達人の旅行道具には興味津津。

宮脇俊三はのめり込んだ対象(車窓風景)から、「おれのことをお前、書けるのか」と挑まれている。ある対象(例えば人物)に惚れて没頭してそれをまとめようとするとき、その対象から「俺を書けるか?」と挑戦される心持ちがするときが私にもある。宮脇に倣って「人物記念館極道(?)」への道を歩むことにしようか。

 

 

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「遅咲き偉人伝」の準備:伊丹十三加藤廣

「幸福塾」の準備。神様。

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「名言との対話」5月27日。レイチェル・カーソン「自然界の保全について、われわれが慎重を欠いていた事実を未来の世代は決して許さむであろう」

レイチェル・ルイーズ・カーソンRachel Louise Carson1907年5月27日 - 1964年4月14日)は、1960年代環境問題を告発した女性生物学者

アメリペンシルベニア州生まれ。10歳で書いた小説がコンクールで受賞し、作家になろうと決心し、大学で英文学を学ぶ。その後生物学に興味を持ち、大学院では遺伝子を研究し、科学者を志す。連邦漁業局につとめながら科学ライターとして雑誌に記事を書く。漁業がもたらす害を研究する中から、農薬として使う化学物質の害に心を痛めるようになる。

執筆中にガン宣告を受けて病と戦いながら『沈黙の春』を1962年に刊行し、ベストセラーとなる。関連業界からの妨害と攻撃にさらされたが、当時のケネディ大統領が関心を持ち、DDTなど化学物質の使用制限にいたる政策に反映されるなど大きな影響を与えた。命をかけた執筆であった。1964年に死去する。遺作となった『センス・オブ・ワンダー』はアメリカで2008年に映画化された。没後の1980年にはジミー・カーター大統領から大統領自由勲章を授与されている。

今回『沈黙の春』を読んでみた。資料やデータ提供者、原稿をみてもらいアドバイスをもらった人、公害反対の活動家、文献収集に力を貸してくれた図書館の専門家などの助力で、この本が出来あがっていることがわかった。

地球誕生以来、そして生命の誕生以来、生物と生物をとりまく環境は絶妙の均衡をつくってきた。そして生物同士も複雑な網の目のような関係があり、その均衡は寸分の狂いもないという状態を保ってきた。生物の7、8割の種類がある昆虫は農産物に害があるとして殺虫スプレーで絶滅させようとすると、生命力の強い種だけが生き残る。人間はさらに強い抗力の薬品を使う。環境が破壊され、絶妙の均衡が破れていく。そしてその連鎖は人間自身の遺伝子に悪い影響及ぼしていく。化学薬品は放射能におとらず人間の遺伝子に負荷を与える。昆虫退治の武器は、その武器を発明した人間自身と地球環境を滅ぼしていくという警告の書である。アメリカだけでなく、日本を含む世界に衝撃を与えた書である。環境問題を指摘し環境保護運動が活発になり、アースデーや国連環境会議の発足につながっていった。計り知れないほど影響力の大きな仕事であった。

レイチェルカーソンの主張と56年の短い生涯に関心を持つ人が多く、伝記が多く出版されている。主な伝記だけでも7冊あり、若い人向けの啓蒙的伝記も5冊ある。日本での翻訳出版も多い。

・地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学的であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。

・世界中の子供に、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダ」を授けて欲しい。

・今、私たちは岐路に立たされている。私たちはずっと高速道路を走ってきた。快適でスピード感に酔うこともできた。しかし、行き着く先は破滅。もう一つの道は、人はあまり行かないが、この道を行く時にこそ、自分たちが住んでいるこの地球の安全と生命を守ることができるのだ。

「春が来ても、鳥たちは姿を消し、鳴き声も聞こえない。春だというのに自然は沈黙している」。そういう春が訪れるのではないかという警告。それが「沈黙の春」である。レイチェル・カーソンは、人類の進む方向を変えた価値ある、歴史的な書を残した。今を生きている世代には、未来の世代への責任がある。