ユーチューブ「遅咲き偉人伝」は、吉田茂。

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」は、吉田茂

https://youtu.be/7zZY2QGVXlQ

 


吉田茂
は高知の自由党の志士であった竹内綱の五男として東京で生まれている。後に、68歳で自由党総裁となり内閣を組織するという因縁があった。3歳で横浜の貿易商吉田健三の養子になる。

明治維新の大立者であった大久保利通の子供であった牧野伸顕伯爵の娘を娶ったが、吉田健三の妻の祖父、つまり吉田茂の曽祖父は江戸時代の大儒・佐藤一斉だった。茂の娘・和子が夫・麻生太賀吉との間に設けたのが、小泉内閣麻生太郎総務大臣というわけだ。

サンフランシスコ講和会議では、参加51カ国で、日本との講和に賛成48、反対3で講和条約が成立した。署名は主席全権の吉田茂だった。89歳で死去するまで政治的に大きな影響力を持った吉田は、東京帝大を28歳で卒業、50歳で外務次官、外相は67歳、首相は68歳というから随分と遅咲きである。そして75歳で第5次内閣を組織するなど政治的にも長命であった。昭和21年5月から29年12月まで首相在任期間は2616日となった。

「あなたは国家と国民がいちばん苦しんでいる時に登場され、国民の苦悩をよく受けとめ、自由を守り平和に徹する戦後日本の進むべき方向を定め、もっとも困難な時期における指導者としての責務を立派に果たされました。、、、あなたは、なにものにもまして祖国日本を愛し、誰よりも日本人としての自負心を抱いておられました、、、」。遅咲きで67才で総理になり、76歳まで第5次にわたって組閣し、89歳で亡くなった宰相・吉田茂国葬の葬儀委員長を務めた佐藤栄作首相の弔辞である。

吉田茂は第一回の生存者受勲で大勲位菊花大綬章をもらった。そのとき、養父・健三の墓前で「相続した財産はすべて使い切りましたが、こうして大勲位をいただきましたのでご勘弁ください」と報告している。

富士山と皇室が日本だと語っていた吉田茂は、「歴史を知らない国民は亡びる」と語っていた。戦後の日本人は日本の歴史を学んでいるだろうか。特に近代から現代にかけての歴史観を持ち得ているだろうか。常に自らに問うべき至言である。

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「名言との対話」4月24日。ウイリアム・アサムス(三浦按針)「私は世界の海図を王に示し、マゼラン海峡を経て来たと答えた」

ウィリアム・アダムス(William Adams1564年9月24日 - 1620年5月16日元和6年4月24日〉)は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。享年55。

ングランド(現イギリス)出身の航海士。 1600年にリーフデ号で日本の豊後(大分)臼杵に漂着した。外交顧問を役割とする旗本として徳川家康に仕え、「三浦按針」名を与えられた。姓の「三浦」は領地のある三浦半島に由来し、名の「按針」には水先案内人としての意味が含まれている。天文官として赴任した平戸で55歳で没。

戦国大名、虎長(家康・三船敏郎)との絆を強めながら動乱の世を生き抜いていく姿を描いた話題作映画「SHOGUMN」の主人公・「青い目の侍」ウイリアム・アダムスこと三浦按針は、リチャード・チェンバレンが演じてぃる。

国人領主・按針が治めていた横須賀・速見には按針をしのぶ按針塚がある。按針新聞も発行されており、ゆかりの4市、大分県臼杵市静岡県伊東市(日本初の洋式帆船を建造した地。按針祭)、横須賀市長崎県平戸市(按針忌)持ち回りの「ANJINサミット」も開催されている。

1600年(関ヶ原)に豊後の臼杵にリーフデ号が漂着したこの船は2年前にロッテルダムを出航し大西洋を越えマゼラン海峡をわたり日本を目指した。石見銀山に代表される銀に関心があった。またラシャ(毛織物)の売り込みも企図していた

日本に到着した後、5月12日以降、この船に乗っていた、ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)とヤン・ヨーステン八重洲の語源)は家康と3回面談し欧州事情(カトリックプロテスタントの関係など)を伝える。

リーフデ号は浦賀に回航され廃船となった。浦賀は北条水軍の拠点だった。これが徳川水軍になった。家康のふところの深さである。

宮脇俊三徳川家康タイムトラベル」を古本屋で入手した。定価が890円なのに、古書としての価格は3000円だったので支払いの時にびっくりした。店主のおばあさんによると、「鉄道紀行物では種村さんと宮脇さんが双璧だが、宮脇さんの方がいい」という評価だった。帰りの電車の中で「相模と伊豆」の項を読んでみた。按針塚という駅名で残っているウィリアム・アダムス(三浦按針)夫妻の墓を訪問するところの小さな旅の筆遣いがいい。

スペインの無敵艦隊とのアルマダ海戦1593-1595年の北極海航路探検も経験している数奇な人生を送る按針が家康に海路を説明した時のこの言葉で、家康は世界をみる新しい目を手に入れたのである。