「久米・橘対談」の第2部でミニ発表ーー「DX時代のお墓」について

夜は「久米・橘対談」に第2部に参加。

「Z」「わらび座」「ヘライザー」「北斎」「母親」「伊丹十三」「小本屋」「文学フリマ」「インターンシップ」「ブルーマー」、、、。

私は「お墓」をテーマに語った。「LetS お墓参り」「供養と幸せ」「コンピュータ時代のあの世」「スマホという位牌」「紙のお墓」「ウェブのお墓」「公と私」「石・木・紙・クラウド」「DX時代のお墓」「永遠に生きるということ」、、、

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鹿児島・久留米・福岡の九州ツアーの準備。

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「名言との対話」6月9日。山田耕作「自分の大成を見ないでどうして日本の国民楽などを創造し得ようか」

山田 耕筰(やまだ こうさく、1886年明治19年〉6月9日 - 1965年昭和40年〉12月29日)は、日本作曲家指揮者

足かけ5年の活版所生活をしながら、作曲家志望は揺らがなかった。16歳で、義兄からエスペラントを習い、ザメンホフ博士からの卒業免状をもらっている。日本最初のエスランティストである。進学した東京音楽学校では作曲科がないので声楽科に所属している。

三菱財閥の岩崎小弥太の援助の申し出があった。「宮殿のような別邸」というお屋敷を訪問し面接を受ける。上野の不忍池付近の「旧岩崎庭園」のことだろう。「私の出来ることは何でもしますから。どうか国家のために成功してください」と励まされて、ドイツに留学することになった。「資本家は利潤追求を目的とするが、経営者は利潤追求を越えた目標を持つべきである、それは国家への奉仕と、国利民福の実現と、一人一人の社員の人間としての完成である」という小弥太の援助であった。

3年間の留学後、帰朝後に山田耕作は、初期の志を十分に果たして、日本音楽の開拓者となって重きをなしていく。戦時中は、交戦派として、音楽家を組織し、軍歌もつくった。戦後には戦犯論争のやり玉にあげられる。

以下、人口に膾炙した傑作を挙げてみよう。歌曲では「からたちの花」「この朝」。童謡では「赤とんぼ」「砂山」「ペチカ」「待ちぼうけ」。オペラ。交響曲。弦楽楽曲。映画音楽。室内楽曲。ピアノ曲。合唱曲。軍歌(「燃ゆる大空」)。国民歌。大学校歌(東京美術学校日本大学明治大学東洋大学一橋大学、、、、)。素晴らしい業績だ。著作も多い。

『自伝 若き日の狂詩曲』(中央公論新社)を読んだ。小山内薫から、まじめすぎる、「デカダン」をやれと言われ、従っている。しかし、もっと切実な勉強の方が大切だったと語っている。少年時代の「やんちゃ」と青年時代の「遊蕩」の記録だと解説の井上さつ」が厳しく書いているが、読んでみると、志はぶれずに一直線であった。

1916年友人の妹と結婚するが、40年後に離婚。同年に再婚している。再婚をきっかけに、1930年から耕作から耕筰に名前を変更したのを公表する。同姓同名が100人以上いて不具合があるからという理由だが、髪が薄くなった山田は、竹竹をかぶせたという逸話がある。猥談。猥歌はひどかったらしい。弟子の高木東六が書いているのを以前読んだことを思いだした。

カタカナの書き方が独特だ。オォケストラ、シェェクスピア、ゲェテ、グレェテル、モォツワルト、ベルギィ、、、。これは耳がいい証拠である。

日本の音楽に賭ける意気込みを聞こう。

  • 「日本を音楽的育てるには、交響曲室内楽というような純音楽よりは、オペラや楽劇にような、劇音楽によるのが捷径だ」
  • 「自分は、未開の、日本楽壇の先達となればいいのだ。一人の屯田兵として、開墾の鍬を打ち込めばいい」
  • 「日本という未開拓の音楽原野を切り開く者は、今の処、自分を措いては他に、、、」
  • 「全国に跨る演奏会を網を作ること。同志を糾合して演奏活動を全国的に展開すること。職業楽団の組織と定期的演奏、この三つを巧妙に按配して推し進めていけば、遅くとも二十年後には、全国に相当数の聴衆を獲得し得るであろう」

「深くドイツの一切を学びとらなければ自分の大成はない。自分の大成を見ないでどうして日本の国民楽などを創造し得ようか」といった山田耕作は、不屈の精神で、志を果たしている。明治の青年らしい気概にあふれている。自分の大成と日本の繁栄が一致していた幸せな時代である。明治19年生まれの山田は、私の母方の祖父と同じである。祖父は東京高等師範を出て、教育者になったが、同じような心境で教育に当たっていたのだろう。

この自伝の後半、つまり日本での仕事ぶりは書くことはできなったが、「作曲者とし指揮者として、日本という不毛の音楽地帯に展開した芸術行動の実相であり、音楽活動の実写」となるはずだった。実現していたら、人々が織りなす日本の音楽史がよくわかっただろうから、残念だ。

山田耕筰は日本音楽史上に重要な地位を占めている。日本初の作曲家として大成した。岩崎小弥太の希望は叶えられたのだ。