寺島実郎の「世界を知る力」対談篇(6月26日)
- 寺島「エネエルギーと食糧の高騰・円安ショック・スタグフレーション・パラダイムシフト」。白井「インフレショック・金利ショック」。真壁「ディ・グローバリゼーション・パラダイムシフト」
- 寺島「金利アップに恐さ・1241兆円の借金・臨界点か」。白井「金利差による円安はいずれおさまるだろう」。真壁「短期は大丈夫・長期(3-10年)はもたない・生活水準を落とす・マグロが食卓に乗らない生活に耐えらえれるか」
- 寺島「アベノミクスの罪と罰・中央銀行の中立性・レジリエンス(耐久力)は食と水とアエネルギー」。白井「地球の持続可能性・金融政策の持続可能性への貢献」。真壁「政治と経済のコンフリクトが大切・安きに流れる」
朝:ヨガで体を整える。
夜:深呼吸学部
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旅行中の「筆債」(名言との対話)処理が終了。
6月28日 滝田樗陰
6月30日 東くめ
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「名言との対話」7月2日。三島海雲「孫子は「敵国のなき国は滅ぶ」と言った。今後、カルピスの類似品は続々できるであろう。私はカルピスのためにそれを望む」
三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、明治・大正・昭和時代の日本の実業家。「カルピス」生みの親、カルピス株式会社の創業者。
大阪府箕面市出身。寺の住職の息子として13歳で得度。京都西本願寺文学量(後の龍谷大学)で学ぶ。1902年、23歳で中国大陸に渡る。日華洋行を設立。正確な地図も作られていない空白地帯に注目した。そこで内蒙古のモンゴル高原で草原に生きる遊牧民から乳製品を振る舞われ瀕死の状態を脱した。1915年帰国。乳酸を広めることを志し、製品開発に取り組むが失敗を重ねる。1919年、世界初の乳酸菌飲料の大量生産に成功し、カルピスを発売し成功。以降、ローヤルゼリー、ヨーグルトなど健康食品を開発する。
山川徹『カルピスを作った』男 三島海雲』(小学館eBooks)。
子ども時代から蒲柳の体質であった。病弱で、とくに胃腸と呼吸器が弱かった。この弱みが乳酸菌飲料の開発に寄与したのである。三島は端正なマスクであった。切れ長の目に鼻筋が通り、口元は意志の強さをあらわすかのように固く結ばれている。母の雪枝は、三島に「偉い人になれ」と語り、息子の教育に力を入れた。彼女がいう「偉い人」とは、馬に乗るような身分の高い人だった。
カルピスの今の水玉模様は、天体の模様を縮図にしたものである。「初恋の味」というコピーを採用するまでさんざん悩んでいる。子女向けの飲料であるカルピスの広告に道徳性や品位を求めたからだ。与謝野晶子は「カルピスを友は作りぬ 蓬 萊 の薬というもこれにしかじ」と詠んでいる。
三島は一九六三年の社員に向けた講演で、カルピス人気の要因である四つの柱として、「美味」「滋養」「安心感」「経済性」を挙げている。「今後、誰が社長になっても、この四つを繰り返し、繰り返し宣伝すればよい」と続けた。健康ブームは大正の終わりになると本格化して一種の大衆運動になり、100年後には国民飲料と呼ばれるまでになった。
三島の伝記読むと、人との出会いが三島の可能性を広げてくれたことがわかる。生涯にわたる恩師となった六歳年上の楚人冠。日露戦争時にスパイとして活動していた 石光真清。日本の山林王・土倉庄三郎の息子の土倉五郎。考古学者の鳥居龍蔵。三島の家畜ビジネスを支援した大隈重信。、、、、。
三島は、就寝前に必ず華厳経を読んでいた。三島は華厳経を、すべての物事は、 因、 縁、 果 の関係において、他の一切のものとの結びついている、そういう 「重々 無尽」 の相関関係を離れて存在しえないと解釈した。「日本一超俗的な経営者」は晩年の呼称である。
「自分の心を空しゅうして人の声にきくことである」
「終生の友として付き合っていける人間の基準を教えておく。それは、その男が親孝行であるかどうか」
「独創的で、人の役に立つもの、健康のためになるものを作れ」
「まず朝起きて読むべき本は、精神の糧となる書物がよい」
アイデアマンの三島は、日本一主義の人だった。どんな分野でも日本一の人に学ぶという主義である。ブリジストンの創業者・石橋正二郎も同じだった。
三島のいうとおり、カルピスの類似品は多数でてきた。ライバルに鍛えれていく。しかしカルピスを超える国民飲料は出ていない。そして健康飲料という分野は、すそ野がどこまでも広くなっている。病弱であった蒲柳体質の明治11年生まれの三島海山は、当時には珍しい96歳の長寿をもって「カルピス」の効果を体現したのである。