寺島実郎の「世界を知る力」(7月17日)ーー「民主主義」「ロシア」。

寺島実郎の「世界を知る力」(7月17日)。「民主主義」「ロシア」。

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7月
  • 英国ジョンソン首相の退任。閣内・党内の離反から。英国の民主主義の成熟を感じる。
  • 安倍暗殺:民主主義への挑戦ではない、テロの時代の到来ではない。新しい次元のテロか。時代の反映。

民主主義とは何か。別次元からの考察。『人間と宗教』を書く過程で考えたこと。

  • 民主主義の敵:「力こそ正義」という暴力、軍事力による強制支配。王権・権力者による専制国家主義
  • 民主主義の基軸:多数決の受け入れと少数意見の尊重という高度な意思決定。
  • 日本のジレンマ:与えられた民主主義(マッカーサー民主主義)。民主主義を大切にする心の弱さ。

人間のポテンシャルへの信頼

  • 着眼1:2500年前、アテネの民主主義の誕生と世界宗教の誕生が同時だった。ユダヤ教2500年前(旧約聖書)・キリスト2000年前(絶対平等。愛によるマネジメント。心の意識の台頭)、ブッダ2500年前(内なる苦悩を深め悟りへ。主知主義)。儒教2500年前(心を制御から天下を制御へ)
  • 着目:意識の芽生え。自分の内省力と他人への共感・共鳴。自己決定力へ。
  • 学説:ジュリアン・ジェインズ(プリンストン大学)の『神々の誕生』「3000年前には人間には意識はなかった。右脳による神々との対話中心で生きていた。BC8世紀2800年前のホメロスイリアス」は神々の意思で動く存在。4000-5000年前のシュメール(文字の誕生)の神話。懲罰。

大衆民主主義の課題

  • アテネの民主主義、西欧の近代民主主義のうねり、アメリカ流民主主義の発展、そして現代の大衆民主主義は「最大多数の最大幸福」。
  • 問題1:ポピュリズムへの傾斜:アテネの衆愚(ソクラテス)。現代でもヒトラー登場、大衆迎合と世論操作、お得なデモクラシーへの傾斜(バラマキ、消費税減税、、)
  • 問題2デジタル民主主義:SNSによる囲い込み、アルゴリズム検索エンジン。マニアックへ。バーチャル環境下での「思考の外部化」。物事を考えなくなってくる。自己決定力のポテンシャルの維持。全体知を磨こう。

ロシア史。

プーチンピョートル大帝礼賛はロシア史をゆがめている。ピョートル大帝とは?

  • ロマノフ王朝の中興の祖。バルト海制圧までのスエーデン戦争(カール12世)の勝利。3代目。オスマンと和解して後顧の憂いを絶っていたのがプーチンと違う。異母のイワン5世。ソフィアという姉、このしたたかな女性は共同皇帝で摂政。
  • 西欧にとりつかれた皇帝。大使節団の一員、オランダのアムステルダムの大工研修など。ウイリアム王と接触。パリ訪問。大ロシア主義を標榜するプーチンと違う。30年戦争から国民国家へ踏み込んだ時代をみつめた。
  • ピョートルはロシア正教を国家機関に取り込んだ。宗教と権力の一体化。

ケンペル:ピョートルと綱吉に会った男。ドイツ人の医者、博物学者。1651年生。1727年初版の「日本誌」。

  • 11歳のピョートル大帝と面会:30数歳。スエーデン国王使節。大変利発な少年という印象。
  • 5代将軍の徳川綱吉と面会:インド、タイ、バタビア東インド会社の一員として長崎出島。2回江戸へ。大奥で歌を歌った。ドイツの恋の歌。長崎の通詞しずきただおが「鎖国論」と訳した。

ロシアと日本の関係史。ロマノフ王朝のアジアへの関心と野心が日本の扉を叩いた。

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東京富士美術館ムーミンコミックス展」

デメケン・力丸・深呼吸学部事務局。

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「名言との対話」7月18日。浅田常三郎「なんでだんねん?」

浅田常三郎(あさだ つねさぶろう 1900年7月18日〜1984年3月7日)は日本の物理学者。

大阪府出身。東京帝大理学部物理学科卒。長兄の浅田長平は京都帝大卒で、神戸製鋼所の社長になった「鉄鋼の巨人」であり、三郎はこの兄の感化を若い頃から受けている。

浅田は帝大で理論物理学の大御所である長岡半太郎に師事した。卒業後は長岡の助手として理化学研究所に入り、長岡の配慮でノーベル化学賞受賞者のフリッツ・ハーバーのもとでの2年間のドイツ留学後に、長岡が初代総長をつとめた大阪帝大で職を得た。

長岡半太郎初代総長のもとには、長岡半太郎大阪大学初代総長時代は、若手研究者の中に湯川秀樹(1907-1981年)や朝永振一郎を入れている。二人とも弟子の仁科芳雄の弟子にあたる。後にノーベル賞候補者の推薦委員になり、「湯川はオリジイナリティがある」として「初めて十分な自信を持って、同国人を推薦できる」と湯川を推薦し、湯川秀樹は日本人初の受賞をしている。

東北大の八木秀次が理学部のトップとして、最初は兼務で後に専任として赴任している。八木アンテナで有名な八木は初代理学部教室主任であった。後に京大から参加した論文を書かない20代の湯川は叱責され、半年後に書いた初めての論文がノーベル賞という金的を貫いた。

大阪大学理学部創立当時の思出」で、浅田は八木からは「研究者は単調な計算などに精力を集註すべきではない。今に計算機人形が出来るだろう」と言った。また「平凡な動物だけを集めても誰も見に行かない。理学部も、動物園のような事が望ましい。一芸一能に長じた人達の集団であってほしい。世間の噂を気にしないで、自分の専門に精進すべきだ」と説いて深い感銘を与えたと述懐している。

浅田常三郎は、物理学を現代社会に応用し、役に立てようと実験物理学を推進した。実感の現場である産業界とも親しくつきあった。産学連携の祖という評価がある。教え子にソニーを創業した盛田昭夫が出ている。盛田は浅田に教えをこうため阪大理学部に入り師事する。浅田はソニーに決定的な危機を3度も救っている。盛田は「何かすべての思考の道筋を先生から受け継いだような気がしてならない」と感謝している。浅田の人柄に惚れこんだ弟子たちで構成する「浅田会」の初代幹事は盛田であった。

浅田常三郎は、「2秒おきにあっちゃこっちゃ振れてると思うとくなはれ」という堺商人の出らしい関西弁で講義しし、講義の途中で疑問が生じると、「なんでだんねん?」を連発した大阪弁の庶民派物理学者であった。

 
 
参考。
湘南化学史懇話会掲載の猪野修治の『産学連携の祖 浅田常三郎評伝』(増田美香子)の書評。
『町人学者』(浅田美香子編)