「世界を知る力」「決断」「遅咲き偉人伝」


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午前:東京MXテレビ寺島実郎の「世界を知る力」。内容は明日書く予定。

午後:8月末締め切りの「決断」の原稿に着手。

夜:「遅咲き偉人伝」の収録。新田次郎森繁久彌。1時間。

新田次郎『富士山頂』(文春文庫)。作家の新田次郎は、気象庁測器課長として富士山気象レーダー設置工事の技術責任者であった。二足のわらじを履いていたこの人物の考え方と組織への対応、そして出処進退に対してどういう考え方をしていたのか興味がある。

新田次郎は、作家の副業を持ち、俸給よりも多い収入を原稿によって得ており、組織内において野武士的な言動で、存在感のある人物として自らを描いている。

  • 経済的安定感は、彼を職場において孤立させた。
  • 昇格を求めていない。
  • いつ辞めても筆で食っていけるという自信があるから強い。怖いものなしっていうんでしょうね。ああいう役人は御しがたいってね。
  • レーダー完成という終着点を頭に描き、ほとんど同時に、全く偶然に彼は退職ということを考えたのである。
  • 人事院はぼくに気象庁を辞めろと言ったのですか。
  • 辞めると決めた心の隅に、もしも村岡が強硬に辞職を反対したらという気がないでもなかった。

富士山レーダーの建設という一世一代の大仕事を引き受ければ、3年間は小説が書けない。その間に世間から忘れられるという恐怖のはざまで彼は迷った。

自宅の書斎から見える富士山を見ながら、「もし逃げたなら、逃げたという悔恨は富士山を見るたびに彼を責めるだろう」という考えに至り、10年になっていた補佐官を卒業し、測器課長を引き受けることにした。そして上司や同僚、関係する業者などで構成された一大事業に邁進し、「オリンピックで金メダルを取ることより、もっとむずかしい仕事」を完成させる。

実際に役所を辞めた53歳から14年間、毎年のように大型話題作を発表し、新田次郎は大作家になっていった。この文庫の表紙には、冬の富士山の真正面に木製の机に陣取って事務をとっている人物の後ろ姿が描かれていて、印象深い。この人物こそ、新田次郎本人である。

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「名言との対話」11月13日。江戸英雄「「経営者は人間として部下と対峙できるか。その時、自分を支えるのは公私のけじめをはっきりさせた身辺の清潔さである」

江戸 英雄1903年7月17日 - 1997年11月13日)は、日本実業家

茨城県つくば市出身。全寮制の旧制水戸高校から東京帝大法学部卒。帝大時代に関東大震災に遭遇する。卒業後、三井合名に入社。不動産課から文書課に移る。団琢磨理事長暗殺事件、財閥解体では三井高公社長のあいさつ文を書いている。財閥の商号・商標の護持に奔走し政令を廃止させた。1955年、社長に就任。三井不動産が三井本社を合併し、名跡を継ぐ。結束が弱まっていた三井グループ二木会という社長会を発足させる。中核会社の連携が加速する。

筑波研究学園都市の建設にも力を注いだが、江戸が行った最大の事業は東京ディズニーランドだろう。朝日土地興業、京成電鉄が経営不振で降りてしまい、三井不動産が開発の主力になった。漁業補償の責任者を推薦するなど尽力した。TDLは1983年にオープンし、大成功をおさめる。江戸英雄が高橋政知を、浦安の漁民たちとの交渉役にしなかったら今の東京ディズニーはない。高橋がディズニーとの交渉を断念していたら今の東京ディズニーはない、といわれる。

政治家では、自民党池田勇人田中角栄ら、社会党の成田知己委員長とも親しかった。家族の縁で桐朋学園理事長、東京家政学院理事長を引き受けるなどしている。また日本野鳥の会に入会し、財政危機時には再建に協力している。

「人脈が広いなどと言われますが、もともと人と人の触れ合いを大切にすることを人生の一つの指針としてきましたし、人の相談にはできるだけのことをするよう心がけてきました。それでいつしか人脈が広がったんでしょう。日常の人の世話が仕事に生きてくる」。世話好きであること、そして水戸高校の人脈も折にふれて登場する。人の縁を大事にするという心がけと、運をつかむ努力が江戸英雄の真骨頂だ。

「経営者としての肩書きを取り去ったあとの人間の中身を、部下の社員の目にさらしたとき、恥ないだけの自信があるかどうか」という言葉も残している。冒頭に掲げた、部下と「対峙する」という言葉には惹かれるものがある。互いに一人の人間として、真正面から向かい合う、にらみ合う。この気力と器量なくしては、人を心服させることはできない。その源は公私のけじめ、身辺の清潔さである。